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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

エチオピア戦争(4)

フランスなどからの援助により近代化されつつあったエチオピア軍に対し、現地エリトリア州の総督であり駐留軍司令官でもあったバラティエリ将軍は、その戦闘力を侮れないものと正確に分析しておりました。

そのため巧みに決戦を避け、拠点に篭もってエチオピア軍の自滅を待つ作戦をバラティエリはとることにします。
エチオピア軍はその兵力の多さがかえってあだとなり、補給が続かなくなるのが見えていたからです。

しかし、イタリア本国はバラティエリの作戦を受け入れることができませんでした。
欧州の近代装備を持った軍勢が、原住民相手に戦闘を避けているなどと思われては、諸外国に外交上で不利になってしまいます。
イタリアのクリスピ首相は、バラティエリに出撃を命じざるを得ませんでした。

1896年2月29日、やむなくバラティエリはイタリア軍をアドワから出撃させました。
その兵力は約一万五千。
バラティエリはこの兵力を四隊に分け、うち一隊を予備として後方に置き、残り三隊をそれぞれ別々の山道を通らせてエチオピア軍に向かわせました。

バラティエリ将軍はいわゆる分進合撃(目的地までの進撃は別々に行うが、攻撃は現地到着後集合して行う)を目指していたのかもしれませんが、これは敵兵力に対し数少ない自軍をさらに分散させてしまう結果となってしまいました。

イタリア軍がアドワから出てきたことを察知したエチオピア皇帝メネリク二世は、全軍にイタリア軍への攻撃を命令、これによって自分の直卒部隊ばかりか皇后の率いる部隊までもが戦闘に参加したといいます。
その数は約十二万にも達したといわれました。

明けて3月1日、分散して進撃するイタリア軍は、そのそれぞれがエチオピア軍の襲撃を受けることになりました。
いわゆる各個撃破の態勢をとられてしまったのです。
もとより数で劣るイタリア軍に、これでは勝ち目があるはずはありませんでした。

イタリア軍は各所で包囲され、予備隊やその他の部隊との連携の取れないままにそれぞれがつぶされていきました。
後方にいた予備隊もエチオピア軍の攻撃を受け、イタリア軍は四隊ともに撃破されてしまったのです。

それでもイタリア軍は勇敢に戦いました。
エチオピア軍に約一万もの損害を与えることに成功し、その火力の強さを見せ付けました。
しかし、イタリア軍のこうむった損害も大きいものでした。
なんと一万五千の兵力の半数以上となる約八千人が戦死し、約三千人が降伏して捕虜となりました。
アドワのイタリア軍拠点にまで後退できたのは、わずかに四千ほどでした。

総兵力が二万人ほどしかないイタリア軍にとって、この損害は致命的なものでした。
イタリア軍はもはや戦闘不能に陥ってしまったのです。
完全なる敗北でした。

この「アドワの戦い」での敗北は、イタリアにとっては大きな衝撃でした。
数において圧倒的に不利だったことは否めませんが、それでも欧州の近代兵器を装備した軍勢が、現地軍にこれほどまでに完膚なきまでに敗北するとは想像もできなかったのです。

メネリク二世はイタリアとの戦後の関係を考慮し、この戦いで捕虜となったイタリア軍兵士を丁重に扱いました。
そしてイタリア側の動きを見守ることにいたします。
ただし、エリトリアでイタリア軍側に加わったエリトリア兵に関しては寛大さは見せず、片手片足を切断するといった厳しい処置を行いました。

一方イタリア国内は騒然となっておりました。
一部には断固としてエチオピアと戦うべきだという論調もありましたが、国民の大多数はこれ以上の戦闘は避け、戦争を収めるべきという意見に傾いておりました。
クリスピ首相は戦争の責任を問われて内閣が倒壊。
バラティエリ将軍も敗北の責任を一身に負わされて罷免されました。

「アドワの戦い」から半年ほど経った1896年10月、イタリア新政権の外交代表団はエチオピアとの間に「アディスアベバ条約」を結びます。
これはエチオピア側から見れば、以前の「ウッチャリ条約」と同じ内容のもので、あらためてイタリアがエチオピアの独立を認め、エリトリアがイタリアに割譲されるというものでした。
ここにいたり、イタリアもようやく「ウッチャリ条約」を受け入れることとなったのです。
「(第一次)エチオピア戦争」は終わりました。

その後、エチオピアは英国やフランスとも外交折衝を行い、自国の独立を認めさせることに成功しました。
エチオピアはとりあえず独立を保持し続けることに成功したのです。

ですが・・・それは次の戦争までの短い期間でしかありませんでした。

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  1. 2010/09/02(木) 21:13:48|
  2. エチオピア戦争
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エチオピア戦争(3)

本国のクリスピ首相の命令により、重要地点であるアンバ・アラギまで進出したイタリア軍約二千でしたが、その行動はついにメネリク二世からの宣戦布告を呼び込んでしまい、「(第一次)エチオピア戦争」が始まりました。

メネリク二世は、イタリア軍が欧州の近代火器を駆使してくるのを知っておりましたので、火力及び兵力でイタリア軍より優位に立とうといたします。
フランスより購入していた近代火器を装備した皇帝直属の部隊約三万人を集めたメネリク二世は、アンバ・アラギのイタリア軍に襲い掛かりました。

双方が近代火器を装備している以上、戦いの趨勢を決めるのは兵力の多寡でしたが、エチオピア軍三万に対し、イタリア軍二千では勝負になりません。
この「アンバ・アラギの戦い」で、イタリア軍は約千三百ほどもの損害を受け、後退せざるを得ませんでした。

この「アンバ・アラギの戦い」での敗北は、現地のイタリア軍司令官であるエリトリア総督バラティエリ将軍にとっても衝撃でした。
しかし、彼はエチオピア軍の実力をきちんと評価していたので、この敗北を受け入れ、分散していたイタリア軍を集結させることにいたします。
そして前衛をいったん下げ、拠点であるマカラにて防備を調えようといたしました。

「アンバ・アラギの戦い」でヨーロッパの軍(イタリア軍)に勝利したメネリク二世は、余勢を駆ってイタリア軍にさらに攻めかかります。
彼はマカラに後退したイタリア軍に攻撃を仕掛けますが、さすがに拠点にこもったイタリア軍は手ごわく、なかなか落とすことができませんでした。

しかし、マカラの守備隊もメネリク二世の軍勢に包囲されてしまったことで補給が続かなくなり、ここも後退を余儀なくされてしまいます。
イタリア軍の守備隊司令官はエチオピア軍と交渉の末、武装を保持したまま後退し陣地を明け渡すこととなりました。
メネリク二世もこれを承認し、イタリア軍は堂々と陣地を明け渡して後退していきました。

バラティエリはこれによって前線拠点を失いましたが、兵力は失うことを避けることができました。
彼はほぼ全兵力に等しい兵力をアドワに集め、そこでメネリク二世を迎え撃つつもりでした。
正確な情勢判断のできる彼は、メネリク二世の軍が皇帝直属の部隊以外は寄せ集めであること、アドワまで進出してくれば補給が続かなくなることなどをわかっておりました。
そのため、アドワでしばらく防御に徹することができれば、メネリク二世の軍勢は後退せざるを得なくなり、皇帝としての威信も地に落ちるだろうと考えていたのです。

アドワに集結したイタリア軍は、本国からのわずかばかりの増援や、現地徴収兵部隊(アスカリ部隊と呼ばれました)などを含め約二万人ほどだったといわれます。
砲も新式旧式合わせて50門ほどを装備しており、この兵力でアドワに篭もれば、メネリク二世もちょっと手が出せないだろうと思われました。

一方のメネリク二世も、自軍の有利な点と不利な点は承知しておりました。
彼の下にはエチオピア各地の軍閥が応援に駆けつけ、その数はなんと約十二万にまで膨れ上がっておりました。
また、彼らの三分の二は小銃などの近代火器を持っており、砲も40門ほどを装備していたため、火力の点でも引けは取らないものでした。

しかし、この数の多さは逆に不利な点でもありました。
皇帝直属の部隊だけではなく、各地の軍閥兵力も加わっていることで、指揮統率の面で困難であるばかりか、この大人数を食わせるための補給がまず追いつかないであろうことが予想できたのです。
そのため彼は短期決戦を目指さざるを得ず、バラティエリのイタリア軍がアドワに篭もって長期戦を戦う構えであれば、なかなか苦しい状況に追い込まれかねない状態でした。

ですが、戦いの女神はメネリク二世に微笑みました。
近代装備のヨーロッパの軍勢が、アフリカの原住民ふぜいに押されて立て篭もっているなどということは、政治的な状況からイタリア本国では認められるものではありませんでした。
当時の欧州各国の情勢では、そんなことをしていたら外交的に舐められてしまいかねなかったのです。
クリスピ首相は、バラティエリに出撃を命じざるを得ませんでした。

バラティエリ将軍は、本国からの勝手な命令を最初は何とかごまかして無視しようとしておりました。
十二万の軍勢に対して、のこのこ出て行っても勝ち目は薄いでしょう。
しかし、しばらく粘っていれば相手は自滅するのです。
それがわかっているのに、出撃するのは無意味です。

しかし本国はそれを許しませんでした。
バラティエリは解任もちらつかされ(実際に解任されたという説も)、出撃を強要されました。
ついにバラティエリは本国の命令に従わざるを得なくなり、イタリア軍はエチオピア軍に向かってアドワを出撃いたします。
1896年2月29日のことでした。
(第一次)エチオピア戦争の決戦である、「アドワの戦い」が始まろうとしておりました。

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  1. 2010/08/27(金) 21:37:31|
  2. エチオピア戦争
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エチオピア戦争(2)

ウッチャリ条約によってエリトリアを手に入れたイタリア王国は、現地エリトリアの総督に「オレステ・バラティエリ」陸軍大将を任命いたしました。

バラティエリ将軍は、生まれた当時はオーストリア領だったトレントで生まれ、その後サルディニア王国の軍隊に入り、イタリア統一後はイタリア王国の軍人になるという面白い経歴の持ち主でしたが、プロイセン対オーストリアの普墺戦争に従軍し、順調に出世を遂げていきました。
1891年に陸軍大将にまで出世した彼は、エリトリア駐留軍の司令官に任命され、翌年エリトリア州が成立すると総督として統治も行うようになります。

一方そのころ、エチオピア(及びエリトリア州)の隣接地域スーダンでは、英国の後押しを受けたエジプトによる支配に対し、マフディー教徒(大雑把に言ってイスラム教の一種)が反乱を起こしており、この「マフディー戦争」の影響がエチオピア方面にまで及んできておりました。

この「マフディー戦争」によるスーダンの勢力増加と、イタリアの牽制という二重の目的があったからこそ、フランスはメネリク二世に対し近代兵器の売却を行ったといわれ、一つの事件がほかの事件に波及していったことがわかります。

この「マフディー戦争」に対処するため、エリトリア駐留のイタリア軍もバラティエリ指揮の下スーダンへと侵攻します。
エジプト軍や英国軍を苦しめていたマフディー教徒たちでしたが、バラティエリは「カッサラの戦い」でこれを打ち破り、多くのマフディー教徒が戦死するか捕虜として捕らえられることになりました。

さらにバラティエリは、エリトリアで起こった現地人の反乱も難なく鎮圧。
アドワという地方都市を制圧して、治安を安定させます。

こうして着々とエリトリアがイタリアの勢力化に置かれるばかりか、その影響力が周囲にまで及び始めてきたと見ると、エチオピア皇帝メネリク二世は、このままでは遠くない時期にエチオピア全土がイタリアの影響下に置かれることになるだろうと危惧いたしました。
ウッチャリ条約のこともあり、イタリアは信用ならないと見ていたのです。

このメネリク二世の意を汲んだのが有力軍閥の長ラス・メンゲシャでした。
彼は自分の軍勢を率いて、エリトリアのイタリア軍に敢然と挑戦したのです。

しかし、これは明らかに準備不足でした。
バラティエリはイタリア軍を指揮してメンゲシャの軍勢を迎え撃ちます。
「コアチツの戦い」でした。

この戦いで、イタリア軍はメンゲシャの軍勢を完膚なきまでに打ち破りました。
メンゲシャの軍勢はまだそれほど近代的な装備を持っていなかったので、イタリア軍の火力に抗し得なかったのです。

しかしこの勝利は、イタリアにとっては不吉の前兆となってしまいました。
近代火力を持ってすれば、アフリカ人の軍勢など鎧袖一触、あっという間に叩き伏せることができるとイタリア本国では考えてしまったのです。
マフディー教徒もエチオピアの軍閥も近代火力には歯が立ちませんでした。
この火力を持ってエチオピアに攻め込めば、エチオピア全土の植民地化もたやすいだろう。
そういう意識がイタリア側には芽生えました。

しかし、現場での空気を感じ取っていたバラティエリは、最近になってフランスから大量の武器を購入しているメネリク二世の直卒部隊の戦力は侮れないだろうと考えておりました。
彼はエチオピアに侵攻するなら戦力の増強をと本国に掛け合いましたが、フランシスコ・クリスピ首相は、現有戦力で充分と判断してしまいます。
それどころか、早くエチオピアに侵攻せよとの命令がバラティエリには出されました。

1895年12月、バラティエリはクリスピ首相の命令に従い、エチオピアへと侵攻を開始します。
とはいっても、侵攻は形だけにとどめ、前線基地であるアドワとアジグラットへの進出までに抑えるつもりでした。
しかし、クリスピ首相は重要地点であるアンバ・アラギにまで進出するよう命令。
やむなくバラティエリは、トゥゼーリ大佐率いる現地徴収兵約二千をアンバ・アラギへと向かわせます。
バラティエリはトゥゼーリ大佐に、必要なときは退却してもよいと伝えたといいますが、トゥゼーリ大佐には伝わってなかったといわれ、二千の兵は不安を抱えたままアンバ・アラギへと進出しました。

イタリア軍が重要地点であるアンバ・アラギまで進出してきたことで、ついにメネリク二世は立ち上がりました。
彼はイタリア政府に宣戦を布告し、「(第一次)エチオピア戦争」が始まります。

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  1. 2010/08/26(木) 21:18:22|
  2. エチオピア戦争
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エチオピア戦争(1)

アフリカの東側、インド洋に角のように突き出した形になっている部分に、最近海賊の出没で話題になっている国ソマリアがあります。
その西側、高地になっている場所にアフリカの古くからの独立国「エチオピア」があります。
今から115年前の1895年と、75年前の1935年の二回にわたって、このエチオピアで戦争がありました。
第一次および第二次のエチオピア戦争であり、両方を含めて「エチオピア戦争」と呼ばれる戦争でした。

アフリカの東側の高地帯に位置するエチオピアは、エジプトの侵略を受けたり、逆にイエメン近くまでの広大な版図を手に入れたりと紆余曲折を繰り返しながらも、他国に制圧されることなく独立を保ち続けておりました。
そのためアフリカ最古の独立国と呼ばれ、近世の英仏の植民地化も行われずに、皇帝の支配する帝国として独自の国家運営を行うことができておりました。

しかし、国内では軍閥が力を持ち、皇帝の座を常に脅かすだけではなく、反乱による帝位簒奪も時々行われるような有様でした。
皇帝の支配する帝国といえども、国内は一枚岩ではなく、不安定な状態だったのです。

一方、アフリカでの植民地獲得競争に出遅れた国のひとつであったイタリア王国は、ようやくエチオピアの一部である紅海沿岸のエリトリア地方(現エリトリア:当時はエチオピア領)を最初は民間会社を通じて、後には軍を派遣して実力で奪い取ることに成功(エリトリア戦争:1885年)しました。

エチオピアは近代化されたイタリア軍には歯が立たず、エリトリア地方を奪われてもどうにもすることができませんでした。
で、あれば、その強力なイタリア軍の力を逆に利用しようと考えた者がおりました。
当時エチオピア帝国の一地方王国であったショア王国の王メネリク二世です。

メネリク二世は、エチオピア皇帝ヨハネス四世に敢然と挑戦し、ここにまたしてもエチオピアでの内戦が始まります。
メネリク二世はイタリア王国をうまく取り込み、エリトリアにいるイタリア軍の支援を受けることに成功。
各地でヨハネス四世の部隊を撃破していきました。

イタリア軍の支援のおかげでメネリク二世は程なくエチオピア全土を支配いたします。
そして新皇帝に即位いたしました。
1889年のことでした。

メネリク二世は、イタリアを利用することで皇帝になったことで、エリトリアのイタリア支配を認めることにいたします。
同1889年、ウッチャリ条約がイタリアとの間で結ばれ、エリトリアは正式にイタリアの植民地として認められました。
これに伴い、イタリアは引き続いてメネリク二世の政権を支援するという約束がなされました。

ですが、欧州の各国間の外交に揉まれてきていたイタリアは、一筋縄ではいきませんでした。
ウッチャリ条約は、イタリア語と現地語であるアムハラ語で書かれておりましたが、微妙に言い回しが変えられていたのです。
アムハラ語で読めば、「エチオピアは他国との外交に関してイタリアに通告しなくてはならない」という程度の意味でしたが、イタリア語では、「エチオピアは外交及び国土の防衛をイタリアにゆだねる」と読み取れる文章になっていたというのです。
つまりエチオピアはイタリアの保護国的な扱いとなり、一歩進めばもう植民地化は目の前といえるものでした。

このことに気がついたメネリク二世は、当然イタリアに抗議を行います。
しかし、イタリアはこの抗議に対して、言い回しが違うだけだと抗弁。
メネリク二世はこのイタリアの態度に怒り、じょじょに両国間は険悪な状況へと向かっていきました。

イタリアはウッチャリ条約で手に入れたエリトリアだけで満足するつもりはまったくありませんでした。
いずれはエチオピア全土の植民地化をもくろんでいたのです。
しかし、経済的な問題から、エリトリアの駐留部隊を強化するのは難しく、現地にいる約一万ほどのイタリア軍に対エチオピアの軍事行動は任されることになりました。

一方メネリク二世は、イタリアとの対決姿勢を強めていきました。
彼はイタリアのアフリカ進出を快く思わないフランスに接近します。
フランスはメネリク二世の接近に応え、近代火器をエチオピアに売却していきました。
このフランスからの武器購入により、エチオピアは急速に近代的な軍事力を装備していくことになったのです。
両国の衝突は時間の問題となって行きました。

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  1. 2010/08/24(火) 21:29:23|
  2. エチオピア戦争
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舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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