FC2ブログ

舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

クリミア戦争(10)

なんだかんだと10回目を迎えてしまいました。
まだまだ戦争はこれからなんですけどね。
いよいよ列強国同士の戦い、「アルマ河の戦い」が始まります。

戦いは、まずは海岸側の右翼仏軍の渡河攻撃から始まりました。
アルマ河の河口付近に展開した連合海軍の軍艦からの砲撃支援を受け、フランス軍はアルマ河を渡河して対岸の崖をよじ登り始めます。
ロシア軍はこちら側はメンシコフ公が登坂困難と見て兵力をほとんど配置しておらず、渡河してきたフランス軍に有効な射撃を行なえません。
さらに登坂困難と見ていたロシア軍に対し、フランス軍は事前に細い登板路を発見しており、精鋭のズアーブ兵と呼ばれるアフリカ出身の兵士を中心にした部隊を送り込み、ロシア軍を圧迫します。
しかし、重量があって移動が難しい大砲が歩兵に付いていくことができず、支援砲撃を行なうことができなかったため、フランス軍の進撃もじょじょに鈍るものとなりました。

一方フランス軍に呼応するかのように、中央と左翼の英軍も攻撃を開始します。
その前衛は左に軽歩兵師団、右に第二師団という並びで、それぞれの目標に向かっていくはずでしたが、何を間違ったのか軽歩兵師団は第二師団とぶつかるように動いてしまい、双方が混乱した隊列のままでロシア軍陣地へと突撃することになってしまいます。
斜面を登り始めた英軍に対し、こちら側を重点的に守備していたロシア軍は、堡塁に装備した大砲や崖の上からの射撃によって英軍に痛撃を与えました。

この機を逃すまいと逆襲に転じたロシア軍でしたが、こういうときの英軍の粘りはナポレオン戦争でも定評があるぐらいであり、すぐさま射撃で応戦します。
ライフリングを施された旋条銃を装備している英軍の射撃は強力で、ロシア軍はたちまちのうちに撃退されました。

ロシア軍の逆襲を蹴散らし、じわじわと迫り来る英軍の攻撃に、重砲を設置した堡塁のうち大きいほう(大堡塁と称す)にいたロシア軍砲兵は浮き足立ち、やがて持ち場を離れて逃げ出してしまいます。
英軍はそこになだれ込むように殺到し、大堡塁は英軍の手に落ちてしまいました。

そのような重要局面でありながら、ロシア軍司令官メンシコフ公は司令部を離れている状態でした。
彼は登坂困難と思っていた左翼(連合軍側から見ると右翼仏軍側)の崖を、フランス軍がやすやすとのぼってきて、そちらから半包囲の態勢をとりつつあるという報告に驚き、視察のために左翼方面に向かっていたのです。
彼の目に映ったのは、まさにフランス軍が崖をのぼり終え、攻撃態勢をとっているところでした。
呆然となってしまったのか、メンシコフ公はこの状態に対してなんら有効な手を打つことができず、ただあわてるだけだったと言われます。

一方大堡塁を奪われたものの、そこに布陣した英軍がかなり損耗していることを見て取ったロシア軍のゴルチャコフ将軍は、司令部にいないメンシコフ公の命令を待たずに独断で大堡塁奪回のために部隊を動かします。
迫り来るロシア軍に対し、大堡塁を占領した英軍は、なぜか反撃しようとはしませんでした。
英軍内で、接近してくる部隊はフランス軍だから撃ってはならないと言う、誤った指示が流されてしまったのです。

接近してきたのがロシア軍だと気が付いたときには、英軍はすでに有効な射撃を行なう機会を逸しておりました。
短いが激しい混戦のあと、今度は英軍が大堡塁から追い出されてしまいます。
大堡塁はロシア軍の手に取り戻されたのでした。

ちょうどこの時、英軍は後方にいた第一師団が大堡塁にいる部隊を支援するために接近中でした。
大堡塁を追い出された英軍部隊は、この第一師団になだれ込んでしまい、第一師団は大混乱に陥ります。
ロシア軍はこの混乱した英軍に射撃を集中、英軍はここでもかなりの損害を受けてしまいました。

しかしこのロシア軍の攻撃も、混乱に巻き込まれなかった英軍部隊からの攻撃で撃退されてしまいます。
さらに猛攻を耐え忍んでいたもう一つの堡塁(小堡塁)も英軍の前についに陥落。
大堡塁も再び占領されてしまい、二つの堡塁がともに英軍の手に落ちました。

さらにフランス軍も順調に攻撃を進めており、ようやく崖を上った大砲による支援も加わって、ロシア軍を痛めつけます。
(ロシア軍から見て)右翼の防御の要である大堡塁と小堡塁を失い、左翼からはフランス軍が迫り来る状況に、ついにメンシコフ公は後退を決意。
1854年9月20日16時ごろ、ロシア軍は戦場を離れました。
「アルマ河の戦い」は、英仏連合軍の勝利に終わったのです。

ロシア軍の損害は約五千五百ほど、対する連合軍は英軍が約二千、仏軍が約千三百ちょっとというものでした。
メンシコフ公は秩序ある後退を図りましたが、実際はロシア軍の後退は壊走でした。
英軍の騎兵部隊指揮官であるルカン卿は、騎兵による追撃でさらなる損害をロシア軍に与えるべきだと進言します。
実際この時点で連合軍がロシア軍に騎兵追撃をかけていれば、「クリミア戦争」そのものもここで終わったかもしれないとも言われる状況でした。

ですが、英軍司令官のラグラン卿も、仏軍司令官のサン=タルノー元帥も追撃を認めませんでした。
騎兵単独での追撃は危険すぎるとされたのです。
結局追撃は行なわれず、ロシア軍はどうにかセバストポリへと逃げ込むことに成功しました。

「アルマ河の戦い」は、39年ぶりの列強正規軍同士の戦いでした。
そのため、ずいぶんと不徹底なものでした。
メンシコフ公はロシア軍の半分ほどしか投入することができず、無傷の部隊を残しながらむざむざと戦場を明け渡してしまい、一方の連合軍も勇敢な英軍と慎重な仏軍の共同攻撃のしづらさを実感し、こちらも無傷の部隊が三分の一ほど投入されずじまいでした。
そして、ラグラン卿もサン=タルノー元帥もただお互いに対する不信感だけが募りました。

「クリミア戦争」は、ますます前途多難になっていくのです。

(11)へ
  1. 2009/04/14(火) 21:08:04|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(9)

エフパトリアに上陸した英仏オスマン・トルコの三ヶ国連合軍は、上陸当初の混乱をどうにか終息させつつ、要衝セバストポリヘ向けてクリミア半島の南下を開始し始めました。
一方ロシア側はクリミア半島に五万の兵力を持っておりましたが、連合軍に対しては若干劣勢であり、しかも防御として篭るべきセバストポリの要塞群はまだ防御体制の準備未了の状態であったため、何とか防御準備の完了までの時間を稼ぐことを第一に考えなくてはなりませんでした。

そこで、ロシア軍のこの方面の司令官たるメンシコフ公は、連合軍がセバストポリ要塞に達する前に、行軍途上にあるアルマ河という川で連合軍を迎え撃つことにします。
このロシア軍司令官メンシコフ公とはロシア使節としてオスマン・トルコとの交渉に当たり、結局は交渉を決裂させてしまったあのメンシコフ公でした。

メンシコフ公は約三万五千の軍勢を率いてアルマ河の南岸に陣取ります。
このアルマ河は、クリミア半島中央部からほぼ東西に流れており、連合軍はセバストポリに行く前に必ず渡河しなくてはならない川でした。
北側(連合軍側)はなだらかなスロープになっており、あまり身を隠せるようなところがありません。
一方南側(ロシア軍側)は急斜面になっており、川を越えるとすぐに崖があったりして、丘の間を通る街道以外は通行困難な岩山になっておりました。
つまり、この岩山に適切に布陣すれば、連合軍はきわめて渡河攻撃しづらい場所だったのです。

しかし、連合軍には利点もありました。
産業革命がすでに国内に定着していた英仏は、その成果を軍事面でも有効に利用し始めておりました。
兵士たちの持つ銃も旧式の滑腔式銃(銃身内部に銃弾を安定させるためのらせん状の溝がない)ではなく、旋条式銃(銃身内部にらせん状の溝を掘ってあり、銃弾が回転してまっすぐ遠くに飛びやすくなる)を装備しており、火力の面では従来の軍隊よりも大幅にアップしておりました。

また、英仏軍の兵士はいわゆる国民軍であり、じょじょに国のために自らが戦うと言う意識が浸透してきておりました。
一方ロシア軍の兵士は徴募された農奴を中心とした兵士たちであり、貴族階級に無理やり戦わさせられていると言う意識が強く、いやいや戦っているに過ぎませんでした。
戦意という面でも大幅に連合軍は有利だったのです。

さらにもう一つ、連合軍に有利に作用したのがメンシコフ公の事前準備でした。
メンシコフ公はアルマ河南岸の地形が険しいことをあてにして、一部には堡塁を設けたものの、海側に兵力を配置しないなど防御態勢に不備のある布陣を取っていたのです。

このように連合軍にはいくつかの利点がありましたが、弱点もまたありました。
大きかったのは、やはり英軍司令官であるラグラン卿と仏軍司令官サン=タルノー元帥とを結びつける総司令部のないことでした。
ラグラン卿もサン=タルノー元帥もお互いに相手に手の内を見せようとはせず、それでいて共同作戦を取らねばならないと言うきわめて普通ではない指揮体制だったのです。

ラグラン卿は頑固な英国紳士で、悪く言えば自信過剰で自分の考えに固執するところがあり、仏軍司令官と相談するなどありえず、作戦会議では相手の意見にうなずいて見せたりするものの、実際にはその意見を無視することなど当たり前のことでした。
一方のサン=タルノー元帥は軍事能力に乏しい上に病床にあり、まともな作戦指揮など望めないものでした。
英仏連合軍は、ロシアを敵としてただその場に一緒にいるに過ぎないと言う連合軍だったのです。

さらにバルカン半島で猛威を振るったコレラが、ここクリミア半島でも連合軍を痛めつけました。
アルマ河の戦場に到着した時点で、すでに連合軍には多くのコレラによる病兵を抱えていたのです。
このコレラなどの病気による兵士の損害は、この後も戦争を通じて両軍を痛めつけました。

そんな状況の両軍がアルマ河で顔をあわせたのは、1854年9月20日のことでした。
これは実に1815年のワーテルローの戦い以来39年ぶりの欧州列強国同士の戦闘だったのです。

連合軍はそれでも一応は共同作戦のようなものを取ろうとしました。
アルマ河に向かって右翼に位置する仏軍がまずは渡河攻撃を仕掛け、ロシア軍の注意と兵力を引き付けたのちに英軍が左翼と中央で総攻撃を仕掛けると言うものでした。
総司令部と明確な指揮系統を持たない連合軍としてはこの程度の作戦が精いっぱいだったのです。

戦いは、まずは海岸側の右翼仏軍の渡河攻撃から始まりました。

(10)へ
  1. 2009/04/11(土) 20:53:47|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(8)

ロシア軍のバルカン半島からの撤収により、あわよくば漁夫の利をもってバルカン半島内の影響力を増そうと画策したオーストリアのもくろみは費えました。
これによりオーストリアはただロシアの反感を買っただけでしたが、オスマン・トルコとしてはロシア軍の撤収により、バルカン半島よりロシア軍を追い出すというこの戦争の目的は達せられました。

ベシカ湾から北上していた英仏連合軍は、アドリアノープルを経てさらに北上しておりましたが、ロシア軍が撤退したことで、こちらは別働隊の上陸したヴァルナへと向かい、ここで合流します。
この行軍は慣れない風土と非衛生な環境からコレラが蔓延し、ヴァルナに到着したときには一戦も交えないまま約二千もの兵士が倒れるというありさまで、英仏としては何も得るもののない行軍に終わります。
さらにガンに侵されていたフランス軍総司令官サン=タルノー元帥もコレラに倒れ、病床から指揮を取るという状況でした。

本来なら、ここでオスマン・トルコの戦争目的が達せられたために「クリミア戦争」は終わってしかるべきものでした。
ロシアの南下が防げた以上、英仏としても目的は達せられていたはずなのだからです。
しかし、古来戦争は始めるのはたやすく、終わらせるのは容易ではありません。
出兵したにもかかわらず、ただコレラで兵士を失う行軍をしただけでしたなどとは、英国のアバディーン内閣もフランスのナポレオン三世も国民に対して言えるはずがなかったのです。
目に見える戦果を得るまで戦争をやめるわけにはいきませんでした。

ガンとコレラに侵され、余命いくばくもない病床のフランス軍総司令官サン=タルノー元帥は、目に見える戦果をクリミア半島の要塞軍港セバストポリに求めました。
セバストポリは、クリミア半島の南部に位置する軍港で、ロシア海軍の黒海における根拠地でした。
このセバストポリを英仏軍が占領することで、ロシアに対する目に見える勝利を手に入れ、黒海からロシアの海軍勢力を排除して戦争終結に導くという構想だったと思われます。

英仏本国から遠いことで戦力も限られている英仏連合軍としては、クリミア半島という限定された戦場での勝利しか望みえず、この作戦しか取りようがなかったのかもしれません。
ですが、バルカン半島と違ってクリミア半島はすでにロシアの領土であり、今度はロシア側が侵入してきた敵を追い払うという立場に立つ国土防衛戦となります。
国土防衛戦となればそう簡単にはロシアも引くことはできません。
戦争は激しいものとなるに違いありませんでしたが、英仏もオスマン・トルコもこのサン=タルノー元帥の作戦を了承し、戦争の舞台はバルカン半島からクリミア半島へと移ることになりました。

クリミア半島及びその半島に位置するセバストポリは、ロシアにとってはとても重要な場所でした。
ここを制することで黒海全体を制していたと言っても過言ではないのです。
ところが、陸軍兵力はわずか五万程度しか置いてありませんでした。
ロシアは地続きのバルト海沿岸方面や現在のポーランド方面、そして撤収するはめにはなりましたがバルカン半島方面に陸上兵力を展開しており、まさか直接クリミア半島に戦火が及ぶなどとは考えていなかったのです。

1854年9月1日。
ヴァルナから英仏及びオスマン・トルコ連合軍がクリミア半島へ向けて出港しました。
輸送船約六百隻に分乗し、護衛の軍艦は百五十隻という大艦隊でした。
ヴァルナに残されたのは、コレラに倒れた兵士たちの数多くの屍だけでした。

この世界最強の英国海軍を主力とする軍艦群に対し、黒海のロシア艦隊はかき集めても六十隻ほどでしかなく、制海権は完全に連合軍のものでした。
そのため、ロシア海軍は上陸妨害を行うこともできず、連合軍はカラミタ湾エフパトリアに上陸します。

この時エフパトリアに上陸した兵力は、フランス軍が約三万二千、英軍が約二万六千、オスマン・トルコ軍が約七千という陣容でした。
三軍の連合軍である上に上陸直後ということもあって、エフパトリア上陸は大混乱に陥りますが、幸いにしてロシア軍の攻撃はなく、連合軍は態勢を立て直すことができました。

こうして連合軍約六万五千はセバストポリへ向けて南下を開始します。
いよいよクリミア半島での戦いが始まろうとしておりました。

(9)へ
  1. 2009/04/10(金) 21:08:00|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(7)

「シノープの海戦」はロシア海軍の圧勝に終わりました。
本来ならこの勝利によって、「クリミア戦争」そのものがロシア優位のうちに終結してもおかしくないはずでした。
しかしこの「シノープの海戦」の勝利は、「クリミア戦争」そのものを妙な方向へと迷走させることになってしまいます。

「シノープの海戦」のロシア海軍の勝利によって、ロシアが有利になったことを喜ばないのは英国でした。
もともとオスマン・トルコを焚き付けてロシアの地中海進出を防ごうとしていたのですから、ここでロシア優位のうちに戦争が終わり、ボスポラス及びダーダネルス両海峡の通行権がロシアに与えられるようになっては困るのです。

英国初め欧州各国はこの「クリミア戦争」に新聞記者を派遣しておりました。
彼らはこの「シノープの海戦」のあまりにも一方的な結果に、これは戦闘ではなく虐殺であると報道します。
沈む軍艦から脱出し海上を漂うオスマン・トルコ兵士にまでロシア軍は発砲したと書きたて、各国の世論はロシアに対する非難で一杯となりました。

この世論の高まりは英国にとっては好都合でした。
英国国民の「シノープの虐殺」を赦すなという声に押され、英国はついに「クリミア戦争」に軍事介入することを決定。
この決定にフランスが同調します。
ナポレオン三世は軍事面での勝利を欲し、この戦争に参加することにしたのです。

年が明けて1854年。
この年日本では日本史上でも有数の出来事が起こります。
1854年2月(日本では嘉永7年1月)、ペリー提督率いる七隻の蒸気船が昨年に続いて江戸湾に来航。
3月にはついに徳川幕府もアメリカとの間に「日米和親条約」を結びます。
日本の鎖国が解かれた瞬間でした。

同じ1854年3月。
英仏はオスマン・トルコとの間に同盟を結び、ロシアに対して宣戦を布告。
歴史区分ではこの時点からを「クリミア戦争」とする場合もあります。
戦争は複数国が関係する国際戦争へと拡大することになりました。

英仏はすぐさま用意しておいた軍勢をオスマン・トルコに派遣します。
本国を出港した英軍の司令官はラグラン男爵フィッツロイ・ソマセット(以後ラグラン卿)でした。
彼は1815年の対ナポレオン・ボナパルト戦である「ワーテルローの戦い」で指揮を取ったというのが自慢であるほどの老将軍であり、66歳という高齢でした。

一方のフランス軍司令官はアシル・ル・ロワ・ド・サン=タルノー元帥。
こちらはナポレオン三世の信任が厚いものの、軍事的な能力は凡庸とされており、司令官としては評価の低い人物でした。
さらに悪いことに、このサン=タルノー元帥はガンを患っていたといわれ、あと数ヶ月の命と宣告されていたといわれます。
この両者が英仏連合軍の各軍司令官であり、連合軍の軍事行動はこの両者が相談して行なうというものでした。

この方式は総司令官を置かない方式のために、軍事行動的には効率が悪く齟齬をきたしやすいものであり、決してよい方法ではありませんでした。
しかし、欧州の覇権を争ってきた英仏両国の代表たるラグラン卿もサン=タルノー元帥も互いに相手の下風に立つことを望まず、このような方式しか取れなかったのでした。

英仏連合軍はオスマン・トルコとロシアがにらみ合いの膠着状況に陥っているバルカン半島のベシカ湾に上陸、また一部は迂回するようにヴァルナに上陸いたします。
英仏の参戦でロシアは今後どうするかを考えなくてはなりませんでした。
とはいえ、英仏が参戦したからといって早々に撤収するわけにもいきません。
ニコライ一世としてはオスマン・トルコとの早期決着を図りました。

ところが、早期決着をもくろんで攻撃したオスマン・トルコのシリストリア要塞に対する攻撃は不調に終わり、一ヶ月経っても陥落させることができません。

英仏連合軍がベシカ湾から北上し、一部がヴァルナからロシア軍の側面を突こうとしているという状況に、どう対応しようかと頭を悩ませていたところに、思いもかけない情報がニコライ一世のもとにもたらされます。
なんと以前革命鎮圧に手を貸してやり、今回の戦争には悪くても中立であろうと思われていたオーストリアが、軍勢を国境線に配置し始めているというのです。

オーストリアは英仏連合軍の上陸に形勢が変化したことを見て取り、バルカン半島へのロシアの勢力のこれ以上の拡大を排除しようと考えました。
英仏に加担することで、今後のオーストリア外交を有利にしようとしたのです。

オーストリアはワラキアやモルドヴァからの撤退をロシアに要求。
これにプロイセンも同調し、ロシアにバルカン半島からの撤退を要求します。
このオーストリアの裏切りとも言える行為にニコライ一世は激怒しますがどうしようもありません。
ついにロシアは欧州各国から孤立無援となってしまったのです。

この事態にニコライ一世は、「敵が多ければ多いほど、名誉も大きくなる」と言ったといわれますが、ロシア軍をこのままワラキア及びモルドヴァに駐留させるわけにも行かず、ついにロシアはバルカン半島から撤収。
オスマン・トルコはロシアの侵入を跳ね返すことに成功したのです。

(8)へ
  1. 2009/04/07(火) 21:30:58|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

クリミア戦争(6)

1853年7月(日本では嘉永6年6月)、江戸湾の浦賀にマシュー・カルブレイズ・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が蒸気船四隻にて来航。
江戸徳川幕府に対し、アメリカ大統領の親書を渡し、日本に開国の要求をします。
幕府はこの一件で大混乱に陥り、返事を翌年回しにしてとりあえず帰ってもらうというありさまでした。

この同じ1853年7月。
ロシアはバルカン半島のオスマン・トルコ領内にいる正教徒の保護を名目としてモルドヴァ地方とワラキア地方にゴルチャコフ将軍率いる八万の軍勢を進めます。
これは明らかに国境侵犯であり、戦争につながる行為ではありましたが、ロシアは正教徒保護ということで宣戦布告は行なわず、オスマン・トルコの出方をうかがいます。

領内にロシアの軍勢が侵入してきたことで、オスマン・トルコの国内は騒然となりますが、まずは戦争という事態を回避するために、軍勢をドナウ川南岸に進出させてロシア軍のそれ以上の南下を食い止めるよう手配した上で、ロシア軍への撤退勧告を行なうという手段をとりました。

しかし、ニコライ一世は撤退勧告を拒絶。
各国の調停も不調に終わり、オスマン・トルコが突きつけた最後通牒もロシア側は無視したため、ついに1853年10月、オスマン・トルコ側がロシアに対して宣戦を布告。
「クリミア戦争」が勃発しました。

オスマン・トルコはまずブカレスト近郊に配置されていたロシア軍前哨を攻撃。
これに対してロシア軍もドナウ川近辺のオスマン・トルコ軍を撃破して南下を開始します。
さらにはバルカン半島各地の反オスマン・トルコ勢力にゲリラ活動をするように仕向け、オスマン・トルコ軍が弱体化するように図りました。

ところがこれはギリシャが反オスマン・トルコの立場から義勇兵の派遣などを行なおうとしたものの、英仏が実力で阻止する気配に出たために断念せざるを得なく、セルビアやボスニア、ブルガリアなどのオスマン・トルコ支配の各地方も一部にゲリラの蜂起などがあったものの、総じて動きを見せませんでした。

さらには動かずと見ていたフランスが、「聖地管理権」だけではなく実際の戦争での勝利によって国民の人気を勝ち取ろうとするナポレオン三世の思惑と、偉大なるナポレオン・ボナパルトを打ち破ったロシアに対する復讐心に燃える国民の意識とが噛み合ってしまい、いまや戦争への介入も辞さずという姿勢になってきていたうえ、ロシアによるオスマン・トルコ支配は、オスマン・トルコ支配下のシリア地方の住民からのフランスへの資金流入を妨げるなどの実利的な面でもフランスにとってこの戦争が無視できないものになってきていたのです。

英国は無論ボスポラス及びダーダネルス両海峡のロシアによる支配は認められるものではなく、当然オスマン・トルコとロシアの戦争には機会を見て参入するつもりであったため、ニコライ一世が考えていたオスマン・トルコ領の分割提案などで納得するはずもなく、着々と戦争の準備を進めます。

ニコライ一世の考えていた思惑がじょじょにはずれてきたロシアでしたが、戦闘そのものもまた最初に思い描いていた思惑とはズレを見せ始めます。
オスマン・トルコ軍は軍勢の指揮官にオーストリア出身のオマル・パシャが就任。
約十三万の軍勢をもってロシア軍に対します。

ロシア軍は11月4日、ワラキアのオルテニッツァという町を攻撃。
しかしこれは撃退され、オスマン・トルコ軍に敗退しました。
ところがオルテニッツァを守りきったオスマン・トルコ軍も、ロシア軍の数の多さに飲み込まれることを懸念してこれを放棄。

ロシア軍はこれ幸いと今度はセルビアに近いカラハットという町を攻撃しますが、ここでもオスマン・トルコ軍に撃退されてしまいます。
オスマン・トルコの近代化がようやく実を結び始めていて、軍の建て直しが成功しつつあったことの証明でした。
オスマン・トルコは実力を取り戻しつつあったのです。

しかし、海ではそうはいきませんでした。
黒海の南岸、オスマン・トルコ側の沿岸にシノープという港町があり、ここはオスマン・トルコ海軍の重要な軍港として機能しておりました。
このシノープ港にいるオスマン・トルコ海軍艦隊を無力化するべく、ロシア海軍はパーヴェル・ナヒモフ提督率いる黒海艦隊を出撃させます。
この艦隊は蒸気船を主力としており、砲弾も最新の炸裂弾を装備しておりました。
一方オスマン・トルコ艦隊はまだ木造帆船が主力であり、実際の戦闘力はロシア側が大きく引き離しておりました。

1853年11月30日。
シノープ港に終結していたオスマン・トルコ艦隊は奇襲が懸念されていたにもかかわらず無警戒でいたため、ロシア艦隊の奇襲を受けてしまいます。
木造帆船のオスマン・トルコ艦隊にはロシア艦隊の炸裂弾が高威力を発揮し、オスマン・トルコ艦隊はほぼ一方的に撃破されました。
さらに港湾施設も砲撃を受け、シノープ港はほぼ軍港としての機能を喪失します。
ロシア海軍の圧勝でした。

この「シノープの海戦」の勝利により、黒海の制海権はロシアのものとなりました。
ロシア海軍は戦闘艦をイスタンブールにまで進めることができるようになり、オスマン・トルコにとってはきわめて不利な状況に追い込まれたことになります。
ロシアは陸での膠着状況をこれによって改善し、「クリミア戦争」そのものも勝利のうちに収めることができるかと思われました。

(7)へ
  1. 2009/04/06(月) 21:12:10|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(5)

「聖地管理権」とは、キリスト教の聖地エルサレムに対する管理権のことでした。
エルサレムを含む地域は、当時オスマン・トルコ帝国の支配地域ではありましたが、イスラム教の帝国であるオスマン・トルコは聖地エルサレムに巡礼に来るキリスト教徒も特に問題なく受け入れておりました。
各地から来るキリスト教徒を受け入れることで交流も起こり、さまざまな税金によって国庫も潤うからです。

巡礼に来るキリスト教徒の受け入れや聖地管理に関しては、オスマン・トルコの承認のもとで従来から現地のキリスト教徒の人々が行なっており、そのバックにはカトリックの守護者をもって任ずるフランスが付いておりました。

しかし、フランスは1789年のフランス革命のカトリック弾圧によりこの聖地管理権を手放してしまいます。
後を引き継ぎ、聖地管理権を手に入れたのが、正教の守護者を任じるロシアでした。
以後ロシアは1852年までこの聖地管理権に基づいてエルサレムを管理しました。

1852年、フランスでは国民投票によりナポレオン三世が皇帝に即位します。
偉大なる伯父ナポレオン・ボナパルトの威光で皇帝位にはついたものの、ナポレオン三世は国内に対して目に見える成果を示す必要がありました。
そのときに目をつけたのがこの聖地管理権でした。

ナポレオン三世はフランスの国力を背景に、斜陽の大国となっていたオスマン・トルコに対してこの聖地管理権をフランスに再度与えるように交渉します。
聖地管理権を再び手にすることで、フランス国内のカトリック教徒を喜ばせ、自身の人気取りに利用しようとしたのです。

オスマン・トルコはフランスにかなりの債務があったこともあって、ナポレオン三世の申し出を了解。
ロシアから聖地管理権を取り上げてフランスに渡します。
これに怒りを見せたのがロシアのニコライ一世でした。

怒りを見せたというのは、ニコライ一世にとってはこの件はオスマン・トルコに対する戦争のいい口実になるであろうことであり、実際にはほくそえんでいたと思われるのです。
ですが、ロシア国内の正教徒に対するためにもポーズ以上に怒りを見せたことでしょう。

ロシアはすぐさまオスマン・トルコに抗議を申し入れます。
聖地管理権をフランスから取り戻すだけではなく、オスマン・トルコ領内の全ての正教との保護のためにロシア軍を駐留させるよう詰め寄ったのです。

オスマン・トルコにとっては内政干渉以外の何者でもありません。
領内へのロシア軍の駐留など認められるはずがないのです。
しかもロシアの黒海進出はやがて地中海進出に結びつくとわかっている英国が、フランスとともにオスマン・トルコを支援したため、オスマン・トルコは強硬にロシアの抗議を突っぱねました。

ニコライ一世にとってはオスマン・トルコが拒絶するのは予想済みでした。
それどころか、この問題を口実に戦争をするつもりでしたから、拒絶してもらわなければ話にならないのです。
ニコライ一世の考えでは、オスマン・トルコは衰退しておりその軍事力はそれほど恐るべきものではなく、オスマン・トルコが当てにしている英仏に関しても、フランスはナポレオン三世が聖地管理権などという人気取りをやっているぐらいで、戦争への介入などはできないであろうし、英国にしても強硬的なポーズは取るものの、実際の戦争になればオスマン・トルコ領を分割することで折り合いをつけることは可能と見ておりました。
ですから、オスマン・トルコとの戦争はもはや既定事実のようなものであり、あとはいつはじめるかというべき状況だったのです。

ポルトガル生まれのロシアの外相ネッセルローデは、ニコライ一世に戦争は得策ではない旨釘を刺してはおりましたが、ニコライ一世は聞く耳を持たず、バルカン半島の諸問題においてもロシアはオスマン・トルコと衝突。
いよいよ戦争は間近と思われました。

1853年2月、ロシアは一応の外交交渉の形式を整えるために特使をオスマン・トルコに派遣します。
外交交渉で戦争を回避しようというポーズでした。
しかし、この特使に選ばれたのは、ミハイル・オルロフのようなベテラン外交官ではなく、アレクサンドル・メンシコフ公爵という貴族軍人でした。

メンシコフ公は、以前トルコとの戦争に従軍した経験があり、その際に銃弾もしくは砲弾の破片で男性器を失うという怪我を負っており、そのせいかとにかくトルコ人が憎くて仕方がないという人物でした。
そのような人物をオスマン・トルコとの交渉使節に任命するというのですから、ニコライ一世がいかにこの交渉が決裂することを望んでいたかが知れようというものです。

メンシコフ公は、黒海でロシア海軍の軍艦に乗りその威勢をオスマン・トルコに見せ付けた上でイスタンブールに向かいます。
そしてあからさまなトルコ人嫌いを見せ付けて何人もオスマン・トルコ側の交渉役を交代させ、さらには普段着でオスマン・トルコ皇帝と面会するという侮辱をやってのけました。
その上で強圧的な態度でオスマン・トルコとの交渉に入ったといいます。

それでも、ロシアとオスマン・トルコとの交渉はどうにか進み、オスマン・トルコ領内のスラブ系正教会信者の生命と財産を保障するならば、ロシアはオスマン・トルコの外敵には共同で対抗するという同盟が合意寸前にまでいたります。
しかし、これには今度はフランスが反発。
結局フランスと英国の圧力により交渉は決裂となり、6月に特使のメンシコフ公は帰国。
ついにロシアとオスマン・トルコとの戦争は秒読み段階となりました。

(6)へ
  1. 2009/04/04(土) 21:09:27|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(4)

「聖地管理権問題」
それはロシアにとってはまたとない好都合な口実となりました。
この「聖地管理権問題」によって、ロシアはオスマン・トルコとの戦争に乗り出すことができたのです。

「聖地管理権問題」とは何なのでしょう?
それにはちょっとだけフランスの歴史が必要となります。
欧州の歴史は連綿とつながっているので、一つの戦争を取り出すには、それまでの経緯がある程度必要なので、ご了承ください。

1808年、パリで一人の男性が生を受けました。
シャルル・ルイと名付けられたこの男子は、その両親と血縁に当時とてつもないものを持っておりました。
父親はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟で、ホランド(オランダ)王のルイ・ボナパルト。
母親はナポレオンの最初の妻であったジョゼフィーヌの連れ子オルタンス・ド・ボーアルネ。
つまりシャルル・ルイはナポレオン・ボナパルトの甥っ子だったのです。
このシャルル・ルイが、この「聖地管理権問題」に関わることになるのでした。

1815年、百日天下といわれたナポレオンの再度の即位は「ワーテルローの戦い」の敗北により再度の退位に追い込まれます。
ナポレオンはセント・ヘレナ島に流され、そこで生涯を終えますが、皇帝のいなくなったフランスでは再び王制が復活し、ルイ十八世が王位に付きました。

ルイ十八世はフランス革命で処刑されたルイ十六世の弟であり、いわば革命によって身内を殺され自身も不遇な状況に置かれたゆえか、当然王政復古に伴いフランスを革命前の状況に戻そうと画策します。
とはいえ、そこは革命後のフランス。
あまりにも反動的な政策は国民に反発されかねないために、ルイ十八世もある程度は穏健な形での王政復古に留めておりました。

1824年、ルイ十八世が死去。
王位はルイ十八世の弟であるアルトワ伯爵が継ぎ、シャルル十世として即位します。

シャルル十世は中道寄りだった政策をかつての絶対王政の時代へと転換します。
報道の自由の制限や下院の解散、さらには有権者の四分の三からの選挙権の剥奪などまさにブルボン王朝絶頂期の絶対王政を復活させようとするかのような政策に、農産物の不作や不況などもあってフランス国民の不満は頂点に達し、1830年7月、「フランス七月革命」が勃発します。

結局シャルル十世はこの七月革命を鎮圧できず、退位を余儀なくされ英国へと亡命。
後継にはシャンポール伯が任命されましたが、これは議会によって拒否され、オルレアン公ルイ・フィリップが新国王となりました。

ルイ・フィリップは「フランス王」ではなく「フランス国民の王」と名乗り国民との融和を図りました。
しかし、富裕層寄りの政策は一般市民には支持出来るものではなく、やがてルイ・フィリップの治世も行き詰まります。

こうした一般労働者層の不満は普通選挙などの権利を求めるものとなり、そうした改革を求める集会が強制的に解散させられたことを契機にして、1848年2月、「フランス二月革命」が勃発します。

立憲君主制であったルイ・フィリップ王政は、首相の退任などで事態の鎮静化を図ります。
しかし、事態はこれで収まらず、市民はついに武装蜂起へと発展。
ルイ・フィリップはついに王位から退位して英国へと亡命します。
ここにナポレオン以後の王政復古後の王制は崩壊しました。

ルイ・フィリップが亡命したあと、フランスでは臨時政府が樹立し、共和制が復活。
これをフランス第二共和制と呼びます。
政府は二月革命以後の混乱を終息しつつ、新たなフランスの指導者を決めるべく大統領選挙を行ないました。
この大統領選挙に立候補した候補者の一人に、大人になったシャルル・ルイ、“ルイ・ナポレオン・ボナパルト”がいたのです。

ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、伯父があの皇帝ナポレオン(一世)であったという事実を有効に利用し、国民の支持を取り付けて行きます。
1848年12月の大統領選挙は、幅広い支持を得たルイ・ナポレオン・ボナパルトの勝利に終わり、彼はフランス大統領に就任しました。

大統領就任後、彼は権力を掌握することに力を注ぎます。
議会を軍事力で解散し、新選挙法などで急進的勢力を封じ込め、ついに1851年には大統領自らがクーデターを起こして権力を掌握。
翌1852年、国民投票によって皇帝に選出され、ナポレオン三世としてフランス皇帝となりました。
フランス第二帝政の始まりでした。

クーデターや議会解散などの実力行使で皇帝になったナポレオン三世は、国民に対して手っ取り早い人気取りの政策を行う必要がありました。
国内外にナポレオン三世の政治力を見せつける必要があったのです。
そこで目に止まったのが、「聖地管理権」でした。

(5)へ
  1. 2009/04/02(木) 21:18:08|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

クリミア戦争(3)

一方のオスマン・トルコ側はというと、18世紀から19世紀にかけてのオスマン・トルコは「瀕死の病人」と呼ばれるほどの国内外の問題を持つ衰退した老大国でした。

数度にわたるロシアとの戦争で、オスマン・トルコは黒海北部の支配権を喪失。
クリミア半島もロシアに支配されてしまいます。
また、ナポレオンのエジプト遠征に触発されたエジプト地方太守とも言うべき存在のムハンマド・アリーが事実上のエジプト独立を果たし、エジプトが失われます。
この時にはロシアがなんとオスマン・トルコを支援。
エジプトの完全独立を阻止する代わりに、ボスポラス及びダーダネルス両海峡の通行権を手に入れました。
さらにはバルカン半島ではナショナリズムが台頭し、ギリシャ独立戦争が勃発。
1832年にギリシャは独立し、これでバルカン半島の一部も失われました。

衰退する一方の帝国を何とかしようと、オスマン・トルコは開明的な君主や改革派の官僚などの力で近代化を推し進めますが、国内のあちこちから独立や反オスマン・トルコの気運が上昇し、その鎮圧や安定化に四苦八苦という状況でした。
バルカン地域でも、ギリシャの独立と前後していくつもの地域が不安定化し、その治安維持にオスマン・トルコは苦しむようになります。

バルカン半島を含む地域は、これまでイスラム教徒(ムスリム)の帝国であるオスマン・トルコの支配地域でしたが、人種的にはスラブ系民族であり、さらに宗教的には「正教」(ギリシャ正教やロシア正教などを含むキリスト教)を信奉する人たちが住んでいる地域でした。
このため、正教の守護者を任ずるロシア帝国にとっては、人種的にも宗教的にもつながりのあるこの地域をオスマン・トルコから分断し、手に入れるか少なくとも影響下におさめるべく画策します。

ところが、そう上手くは行かないもので、1839年に再び起こったエジプトとオスマン・トルコとの戦いにおいては英仏が介入。
ロンドン条約によってボスポラス及びダーダネルス両海峡は、平時における全ての国の軍艦の通行を禁じることになりました。
これによりロシアは以前手に入れたボスポラス及びダーダネルス海峡の通行権を失うことになったのです。

ボスポラス及びダーダネルス海峡の通行権を失ったことは、ロシアにとっては痛手でした。
英国やフランス、オーストリアなどの軍艦は両海峡を通る必要性は低く、平時に軍艦の通行ができなくてもなんら問題ありません。
しかし、ロシアにとっては地中海への出口がまたも閉ざされたのです。
これは地中海をインドとの通商路として他国の影響を極力排除したい英国の思惑でした。
英国はロシアを黒海で封じ込めておきたかったのです。

19世紀前半は、いち早く産業革命を成し遂げた英国にとっては飛躍の時代でした。
英国は世界の工場としてその工業生産品を各国に売りさばくことで国力を増大させていっておりました。
英国にとっては通商路の維持こそが最大の関心事であり、地中海航路を他国の影響下に置くことなど許せるものではなかったのです。

ロシアは再度の地中海進出をもくろみました。
ボスポラス及びダーダネルス両海峡を再び手に入れ、地中海への出口を確保するのです。
そのためには「瀕死の病人」であるオスマン・トルコと戦争をしてもかまわないとニコライ一世は考えておりました。
地続きの強国であるプロイセンやオーストリアには、1848年に起こった革命に対する鎮圧にロシア軍を派遣して援助しているため貸しがあり、トルコとの戦争になってもロシアを支持するはずという目論見があり、フランスは1948年革命の混乱に乗じて大統領に就任し、その後皇帝となったナポレオン三世が国内を取りまとめるのに精いっぱいであろうと見ておりました。
最大の障害と考えられる英国に対しても、オスマン・トルコとの戦争で獲得した領土を英国との間で分割すれば文句は出ないはず。
ニコライ一世は楽観的にそう読んで、オスマン・トルコとの戦争に備えました。

しかし、戦争をするには何らかの口実が必要です。
さすがにこの時代、口実のない戦争はいくらなんでも起こせません。
オスマン・トルコ側が何か問題を起こし、それを口実に戦争をすることができれば・・・
ニコライ一世は何とかその口実を見つけようとします。

そして、その口実がフランスの手によってもたらされることになりました。
それが、「聖地管理権問題」です。

(4)へ
  1. 2009/04/01(水) 21:15:08|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(2)

エカチェリーナ二世による治世が終わると、その子パーヴェル一世が皇帝位を継ぎました。
パーヴェル一世はロマノフ王朝における帝位継承権を明確にするという法律を定めたぐらいで、さしたる業績を上げることはありませんでした。

1789年、フランスで世に言う「フランス革命」が起こり、ブルボン王朝が滅亡。
これにより欧州各国は革命の自国への波及を恐れ、フランス共和国との戦争に入ります。
ロシアもオーストリア、イギリス、トルコとともに対仏同盟に参加。
北イタリアに出兵したり、黒海艦隊を地中海に派遣するなどしてフランスと戦いました。

ところが1799年になると、フランスでナポレオン・ボナパルトがクーデターで総裁政府を打倒し、フランス共和国の第一執政となりました。
このクーデターによりパーヴェル一世はナポレオンの支配するフランスとは共同歩調を取ることが可能と考えたのか、対仏同盟を離脱し、逆に反英同盟をフランスとの間に結びます。
そしてまたしてもオスマン・トルコに対する戦争や、さらにはインド征服までも考えるようになり、臣下の不評を買うようになってしまいました。

1801年、ロシアで再びクーデターが発生。
パーヴェル一世は暗殺され、息子のアレクサンドル一世が即位します。
アレクサンドル一世は、フランス革命後の欧州での戦乱状態からロシアを遠ざけようとしましたが、この時代にはロシアの動向は欧州に影響を与えるまでになってしまっていたので、英仏などがロシアを自陣営に引き込むべく動くことになります。

この時期、欧州は良くも悪くもナポレオンのフランスを中心に歴史が動くことになりますが、ロシアはこの時期にグルジアやアゼルバイジャンなどを手に入れ、オスマン・トルコとも再び小競り合いを繰り返して、バルカン半島にも影響力を持つようになります。
さらにはカフカスにも手を伸ばし、中近東に影響力を持つ英国と対立し始めるようになりました。

そしてついにフランスとの直接対決となり、ナポレオンのフランス軍のロシア遠征を迎え撃ちます。
ロシアの国土の広大さや奥深さ、それに冬と焦土作戦などによりナポレオンの遠征軍は崩壊。
その後フランスはこの損害からついに立ち直ることはできませんでした。

1814年にはパリが占領されナポレオンは退位。
翌年にエルバ島を脱出したナポレオンにより一時混乱するものの、最終的にはウィーン会議によってナポレオン後の欧州体制が決定します。
欧州はとりあえずの落ち着きを取り戻すかに見えました。

1825年、皇帝アレクサンドル一世は48歳という若さで世を去ります。
長じた子がおらず、帝位継承がどうなるのか危ぶまれましたが、二人の弟のうち年下のニコライに帝位を継がせることを遺書に残しておりました。

この遺書に基づき、ニコライ一世がロシア帝位に就くことになるのですが、兄を差し置くことにためらいのあったニコライ一世は、正式に兄のコンスタンチンが帝位辞退を申し出るまで即位を断ります。
コンスタンチン自身はもともと帝位になど興味がなかったこともあり、ニコライの帝位継承はすんなり決まるはずだったのですが、ここで皇帝専制や農奴制などに反抗する青年貴族たちの反乱、いわゆる「デカブリストの乱」というのが発生します。

ニコライ一世は即位の日に流血の事態になることを避けようとしましたが、説得は失敗。
ついに実力で反乱を鎮圧せざるを得なくなりました。
このことはニコライ一世の強圧的な面を示すものとして広まり、彼自身にもある種のトラウマになったといいます。
このニコライ一世がクリミア戦争時のロシア皇帝でした。

ニコライ一世が皇帝となったロシアは、ピョートル大帝時代からの念願である対外進出路のさらなる確保を目指しました。
しかし、バルト海は確かに便利な位置にはあるものの、冬には凍結する上に出口である北海を英国海軍が押さえております。
中部の陸路はやはり新たにできたポーランドなどいくつもの国があって、進出路には向きません。
結局やはりロシアの目指すのは黒海の完全支配と、黒海の出口であるボスポラス及びダーダネルス両海峡の支配権獲得でした。
そしてその相手となるオスマン・トルコは、かつての勢力はなく組みしやすい相手と思われたのでした。

(3)へ

ちょっとロシア側の流れだけを取り上げてしまいましたが、なぜクリミアで戦うことになったのかを示すのに、ある程度のロシア史を紹介したほうがいいかなと思いました。
ロシアはとにかく黒海の支配と出口が欲しかったのだとおわかりいただければと思います。
  1. 2009/03/31(火) 20:54:25|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

クリミア戦争(1)

1480年ごろに成立した「モスクワ大公国」は、1721年にはのちに大帝とも呼ばれるピョートル一世が元老院より皇帝の位を受け取り、「ロシア帝国」と名を改めます。
この皇帝の位を得ることになった理由が、ロシアを強国に導いたピョートル一世の富国強兵策であり、その一環としてスウェーデンとの間に行った「大北方戦争」の勝利でした。

18世紀のロシアはまだまだ国力も低く、東方の二流国というイメージで欧州各国からは見られておりました。
おおっぴらに田舎の野蛮国と公言する向きもあったのです。

ピョートル一世は、そんなロシアを何とか欧州の一流国の仲間入りをさせたいと考えておりました。
そのためには他国との交流及び貿易を活発化させ、国内を富ませることが第一と考えたのです。

交流及び貿易を行なうには、できれば直接その相手国とやり取りするのが一番です。
当時の欧州の一流国といえば、英国やフランスであり、オーストリアでした。
しかし、いずれもロシアからは遠く、しかも間にいくつもの他国や地域が存在します。
陸路で交流や貿易をするには難しいものがありました。

では海上貿易ではどうでしょう?
船であれば直接フランスや英国の港へ行き、そこで貿易を行なうことができます。
また物資も船ならば低コストで大量にやり取りすることが可能です。
ロシアの産物を取引することで、英仏の優れた商品や武器も手に入るでしょう。
海上貿易ができればこんなにいいことはありません。

しかし、大きな問題がありました。
当時のロシアには面している海が北極海しかなかったのです。
北極海は気象条件などが悪く、航海向きの海ではありません。
また、英仏に行くにも、大きくスカンジナビア半島を回らなくてはなりませんでした。

英仏と海上貿易をする上で一番手っ取り早い海はどこか?
それはバルト海でした。
バルト海は当時スウェーデンが確保しておりましたが、ピョートル一世はこのバルト海への出口を求めてスウェーデンとの戦争を起こします。
これが「大北方戦争」でした。

ピョートル一世率いるロシアは、この「大北方戦争」に勝利し、バルト海沿岸の一部を手に入れます。
そしてこの新しく得た領土を流れるネヴァ川河口に新しい港湾都市を建設しました。
これが、聖なるピョートルの町「サンクト・ペテルブルク」です。
ピョートル一世はこの町に首都を移し、以後ロシア帝国はこのサンクト・ペテルブルクを中心にして国家運営がなされることになりました。

一方、ピョートル一世は、ロシアの南側にも目を向けておりました。
ロシアの南には、当時世界最強国といわれる「オスマン・トルコ帝国」がありましたが、じょじょに斜陽化しており、その国力も衰退の一途をたどっておりました。

北のバルト海と並び、南の黒海もロシアにとっては海上貿易上手に入れたい海でした。
以前はオスマン・トルコががっちりと握っていた黒海周辺でしたが、ピョートル一世は果敢に戦争を挑み、黒海の一沿岸であるアゾフを手に入れることに成功します。
これでバルト海と黒海にロシアは足がかりを得ることができました。
(時期的にはアゾフ占領のほうがバルト海進出より先)

ピョートル一世の死後、時代は下ってドイツ生まれのゾフィー・フレデリーケ・アウグスタ(ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケとする資料もあり)という女性が、ロシア皇太子に嫁ぐためにロシアに向かいます。
1744年のことでした。
(結婚は1745年)

ゾフィーはサンクト・ペテルブルクでロシア語を学んだり、ロシア正教に改宗したりして、名前もエカチェリーナ・アレクセーエブナと改名。
奇しくもピョートル一世の妻であったエカチェリーナ一世と同じ名前となりました。

当時の女帝エリザヴェータが1762年に死去すると、エカチェリーナの夫である皇太子ピョートルがピョートル三世として即位。
エカチェリーナは皇后となります。

ロシアは当時中央ヨーロッパで頭角を現してきた「プロイセン王国」との戦争、いわゆる「七年戦争」を戦っている最中でした。
プロイセンは大王とも呼ばれるフリードリヒ二世の下、中部ヨーロッパにおける覇権確立と自国の存亡をかけて「七年戦争」を戦っていたのですが、周りは敵国ばかりという状況でまさに四面楚歌の状況でした。
フランス、神聖ローマ帝国、スウェーデン、オーストリア、そしてロシアを敵にしてしまったプロイセンは、まさに危機的状況だったのです。

即位したピョートル三世は、自他ともに認める大王フリードリヒ二世の信奉者でした。
彼はまさにプロイセンを追い詰めようとしているロシア軍を停止させ、それどころかプロイセンと講和してしまいます。
このことはロシア帝国に対する諸国の信頼を損なったばかりか、国内でもプロイセンびいきの皇帝に対する不満が噴出することになりました。
他にも人気の高かったエカチェリーナ皇后を廃して寵姫を皇后にしようとするなどピョートル三世の行動は貴族層の不満を広め、ついにクーデターが起こります。

ピョートル三世はわずか在位六ヶ月で皇帝の座を追われ、エカチェリーナがエカチェリーナ二世となって即位しました。
こののちエカチェリーナ二世の治世の下で、ロシアはさらなる拡大を続けることになります。

西ではポーランドを分割して地図上から消してしまい、南では二度にわたるオスマン・トルコとの戦争で黒海北部を完全制圧。
クリミア半島もロシアのものとなりました。
このクリミア半島が、「クリミア戦争」の主要舞台となるのです。

(2)へ
  1. 2009/03/30(月) 21:03:40|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ

カレンダー

11 | 2019/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

AquariumClock 2

プロフィール

舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

ブログバナー


バナー画像です。 リンク用にご使用くださってもOKです。

カテゴリー

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

管理人にメールなどを送りたい方はこちらからどうぞ

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

ランキング

ランキングです。 来たついでに押してみてくださいねー。

フリーエリア

SEO対策: SEO対策:洗脳 SEO対策:改造 SEO対策:歴史 SEO対策:軍事

フリーエリア