FC2ブログ

舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

ノモンハン13

第7師団の一部を増援にまわし、一個師団強もの戦力を集中する今回の作戦に関東軍は自信を持っておりました。
鉄道より遠く離れたノモンハンにソ連軍が大部隊を展開できるはずは無い。
外蒙軍を中心とするハルハ河越境兵力を相手にするのであれば、一個師団強という戦力はまさに圧倒的なものである。
万万が一にも負けることなどは考えられないとの思いでした。

ノモンハンにソ連軍がスターリンの命で戦力を集中しているのを、モスクワで肌で感じ取っていたソ連駐在武官が、わざわざそれを知らせにシベリア鉄道経由で、増強ソ連軍の状況を調査しながら満州の新京にやってきて関東軍司令部に報告したにもかかわらず、関東軍司令部はその武官を「臆病者」とののしった上、いまさらそんなことを言う奴は切るとまで脅されたのです。
まさに敵を知らずおのれを知らずの状況だったのではないでしょうか。

ノモンハンより南西にモンゴル側に入ったところにタムスクという町がありました。
ソ蒙軍の拠点として活用され、航空隊の基地も置かれておりました。
6月中旬にカンジュル廟やアルシャンを爆撃したソ連軍航空機はここから飛び立ったものが大部分でした。
ノモンハン上空の優勢を確保するためには、関東軍にとっては叩き潰したい航空基地であったのです。

タムスクは当然モンゴル領内です。
つまりそこを攻撃するということは他国の領土への攻撃となります。
日本帝国陸海軍は天皇陛下に統帥されています。
他国への攻撃などということは、天皇陛下の命令があって初めて行なえることでした。

しかし、関東軍はこう考えました。
すでにカンジュル廟への敵軍の空襲があったからにはノモンハン一帯は戦場である。
戦場での敵軍への攻撃は軍司令官の裁量のうちにあるのであり、天皇陛下の命令による必要は無い。
タムスクの敵飛行場攻撃は関東軍司令官の裁量範囲内であるため問題ないというのでした。
もはやここまでくると笑うしかないのかもしれません。

このタムスク爆撃の計画を察知した(味方の行動を察知したというのも何なんですが・・・)東京の参謀本部ではまさに驚愕しました。
関東軍が何かをやるつもりだとは感じていましたが、第23師団一個ぐらいなら好きにやらせてやろうという空気が強かった中、他国への越境爆撃はさすがに限度を超えていると感じたのです。

しかし、参謀本部は毅然とした態度に出ませんでした。
関東軍のメンツをおもんぱかったのか、中止“勧告”を出すにとどめ、中止“命令”は出しませんでした。
参謀を派遣してやめさせようとしたのです。

関東軍は中止“勧告”では引き下がりませんでした。
東京から参謀が中止を進言しに来る前にやってしまえということにすらなったのです。

昭和14年(1939年)6月27日早朝。
第2飛行集団の百機以上の航空機がタムスクに向かって出撃。
タムスクで迎撃に上がってきた敵戦闘機や地上駐機中の敵攻撃機などに激しい攻撃を仕掛けました。
日本側は未帰還機四機、戦死七名という損害に対して百機以上の敵航空機を撃破。
ソ連側航空部隊は大損害を受けました。
完全なる奇襲だったのです。

辻参謀が歓喜して敵に与えた戦果を確認して司令部に報告。
関東軍司令部でも各員が小躍りして大戦果に酔い痴れました。
まさにしてやったりの大戦果だったのです。

当然のごとく関東軍はこの大戦果を東京の参謀本部に報告します。
中止勧告という行き違いはあったものの、参謀本部もこの大戦果には喜んでくれるに違いない。
関東軍司令部ではそう考えていました。

しかし、参謀本部から返ってきたのは「バカ者!!」という一喝でした。
確かに大戦果かもしれないが、ソ連が黙って引っ込んでいるわけが無い。
必ず報復がある。
その報復が大規模で日ソの全面戦争にでもなったらどうするつもりなのか?
いったい関東軍は何を寝ぼけているのか?
それが参謀本部の言い分でした。

関東軍司令部は色を失いました。
揃ってバカ呼ばわりされたのです。
参謀本部への反感は頂点に達しました。
犠牲が出なかったわけじゃない。
現に戦死者も出ているし、生き残った連中だって命がけで戦ったからこそ、この大戦果を生んだのだ。
兵士たちの敢闘を無視し戦果を無視する参謀本部は何事か!
これでは死んだ英霊も浮かばれないし、兵士たちに戦えなどとは言えないではないか!
だいたい報復というが、今回のこの攻撃こそ報復であって、カンジュル廟への空襲や東捜索隊などの無念を晴らすものではないのか?
参謀本部の方こそ大バカ者の集まりではないか!
参謀本部などはもはや当てにならん。
満州は我々が守るのだ。

関東軍は参謀本部に対し次のような電文を送りました。
「関東軍の基本方針は敵の不法行為を打破し、北辺の備えを強化、それによって支那事変解決に貢献するところにある。現状の認識と手段においては参謀本部と当方はいささか見解を異にしているが、北辺の些事については当方に一任して安心せられたし」
つまり、ソ連軍との戦闘など北辺の些事であるから関東軍に任せて余計なことは言うな、というのである。
なんと言う電報でしょうか。

参謀本部はついに天皇に上奏し天皇の命によりという体勢を整えます。
その上で関東軍に対してこれ以上の越境攻撃をするなという指示を出しました。

ですが、すでに遅きに失していました。
ハルハ河に陣を敷くソ蒙軍に対して、関東軍はまさに攻撃を仕掛けるべく部隊を展開中だったからです。

第二次ノモンハン戦が始まろうとしていました。

その14へ
  1. 2007/09/03(月) 20:30:40|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン12

スターリンはこれで終わったなどとは考えていませんでした。
ヨーロッパ情勢の変化に備えるためにも、極東での日本の蠢動を完全に封じ込めたいと考えていたのです。
ノモンハンの国境紛争はいいチャンスでした。

スターリンは日本にいるゾルゲなどのスパイ網に、関東軍との衝突は日本との全面戦争になるや否やを問い合わせました。
その答えは否。
ノモンハンで関東軍と武力衝突に至っても、日本との全面戦争にはならないであろうというものでした。

満足したスターリンは、現地関東軍に対しできる限りの兵力でこれを撃滅することを命じます。
そしてその実行者に、後の独ソ戦で有名になるゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフを任命しました。
ジューコフは直ちにハルハ河西方の都市タムスクに出発。
到着と同時に現地の第57特別狙撃兵団長を解任し、後任に納まりました。

ジューコフは現地の状況をスターリンに報告し、大規模な兵力の増強を要請します。
スターリンもその要請を受け入れ、要請以上の兵力を送ることを約束しました。
すなわち、機械化狙撃兵師団一、戦車旅団二、装甲車旅団一、狙撃兵師団二、砲兵連隊三、飛行旅団二という膨大な兵力がジューコフの手元に送られることになったのです。
ジューコフはハルハ河東岸に橋頭堡を築くべく、陣地を構築し兵力を展開させていきました。

日本軍内部、関東軍と参謀本部においては、ノモンハンの国境紛争は終結したと信じて疑いませんでした。
東捜索隊の壊滅、山県支隊の大打撃など関東軍にとっても出血の多かった戦いでしたが、ソ蒙軍も負けず劣らずの損害を出したはず。
事実こちらが増援を出せば引き上げたではないか。
ということは、ソ蒙軍もこれ以上の損害には耐えられないというまでのダメージを受けていたという証明であろう。
関東軍司令部はそう考え、参謀本部にもそのように報告していました。
つまり、「ノモンハンの国境紛争は終結した」という報告でした。

ノモンハン近傍は、関東軍にとっても拠点であるハイラルから約二百キロの距離にありますが、ソ連軍にとってはシベリア鉄道の駅があるボルジャ、またはヴィルカから七百五十キロも離れておりました。
燃料、弾薬、糧秣、軍事行動に必要な物資は膨大な量になります。
そういった物資を運ぶには鉄道が一番であり、鉄道以外では微々たる量しか運べません。
関東軍を始めとする日本軍もトラックはありましたが、あくまで物資輸送では補助的なものでした。
ですから、兵力を展開するには、そばに鉄道があるということが不可欠と考えられていたのです。

ですから、最寄の駅から七百五十キロも離れた場所に兵力を展開するとしても、運べる物資が限られるトラックや馬車では大兵力の展開は望めません。
関東軍は自分たちのトラック保有量などから考えて、ソ連軍もノモンハンに大兵力を展開できるなどとは夢にも思わなかったのです。

大兵力を展開できないソ蒙軍相手であれば、関東軍第23師団の兵力をもってすれば対処可能であろう。
無論、その場合には関東軍直轄の砲兵力や航空兵力をプラスしてやることも必要であろうが、それで充分であると考えたのです。
そのため、関東軍側にはソ連軍の兵力増強がまったく見えていませんでした。

昭和14年(1939年)6月19日。
第23師団長小松原中将よりの緊急電報が関東軍司令部に舞い込みます。
6月17日より連日ソ連軍航空機が国境を越えて爆撃に及び、カンジュル廟やアルシャンの集積物資を破壊されたというのです。
しかも、ソ蒙軍は再びハルハ河を渡り、東岸に陣地を築きつつあるとのことでした。
小松原中将はこのソ蒙軍の越境攻撃に対し、今度こそ断固膺懲したいと強く進言します。

関東軍司令部は激昂しました。
またしても懲りずに来たのかという思いとともに、今度こそ撃滅して関東軍の恐ろしさを思い知らせてやろうと意気込みます。
中国戦線での支那派遣軍の苦戦から自重したほうがよいとの意見もありましたが、このまま黙っていてはソ連軍に舐められるばかりだ、一撃を食らわせて黙らせるほうがよいとの意見が多数を占め、関東軍はソ連軍との戦いを決意します。

関東軍はこのために最精鋭の第7師団の投入を考えました。
第7師団は北海道旭川で編成された師団で、古くは日露戦争の旅順攻略戦に参加した伝統ある師団です。
当然装備も優良で兵の士気も高く、関東軍の中でも最強の師団と目されていました。
この第7師団を中核にして、関東軍直轄の砲兵と航空機がこれを支援。
ハルハ河を逆渡河して西岸に侵入、その間に第23師団が東岸のソ蒙軍を一蹴するというものでした。

さすがにこの作戦案を提示された関東軍上層部は、参謀本部の承認をとった上での作戦実行をと考えましたが、辻少佐や服部中佐などの参謀たちが参謀本部への不信により、関東軍独自での行動を主張。
越境ソ蒙軍撃滅は関東軍の本来の任務であるし、参謀本部などにいちいちお伺いを立てていては機を失する。
ことは重大事であるゆえに一刻も早い処置こそ必要として、参謀本部を無視するよう訴えました。

現地の一軍でしかない関東軍が、参謀本部を無視して独自行動を行なう。
これはあってはならないことであり、日本陸軍の最悪な組織運用の見本でしょう。

結局関東軍参謀長磯谷廉介(いそがい れんすけ)中将も辻少佐や服部中佐の勢いに飲まれ、作戦案を了承。
関東軍司令官の植田大将の裁可を仰ぐこととなります。
植田大将は、一つだけ修整を加えるように言いました。
「この作戦では主力が第7師団となっているようだが、ノモンハン周辺は小松原の第23師団が担任だ。それを第7師団に任せられたのでは俺が小松原なら腹を切るよ」
腹を切るのはそのことに対してではなく、関東軍が参謀本部の統帥を離れようとしていることに対してではないのでしょうか。

結局この一言により、作戦の主力は第23師団ということになりました。
第7師団からは歩兵四個大隊その他を分派して第23師団への応援という形で派遣することになりました。
関東軍は歩兵十三個大隊、火砲百十二門、戦車七十両、航空機百八十機、自動車四百両、総兵力約一万五千という兵力を向かわせることになったのです。
関東軍は自信満々でした。

そして、その自信満々の関東軍がまずやったことがタムスク爆撃でした。

その13へ
  1. 2007/08/29(水) 20:12:32|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン11

スターリンはヨーロッパとともに極東にも脅威を感じておりました。
そのため、日本に支援された満州国による度重なる挑発行為は、本格的な戦闘の前触れとなりかねないことも感じておりました。
折りしも日独伊三国同盟についての動きが活発化している中、独日との二正面作戦を行なわなければならない可能性も考慮しなくてはならなかったのです。

スターリンはこの際一度日本軍を叩いておくことも必要と考えます。
ノモンハンでの国境紛争に対し、ソ連軍の全面的支援が命令されました。

昭和14年(1939年)5月17日。
東捜索隊が引き上げたハルハ河東岸に、再び外蒙軍が布陣します。
前回の60に対し、今回は約300人の軍勢でした。

小松原師団長は外蒙軍の再度の越境に断固対処することにしました。
今度こそ外蒙軍に一撃を加えて膺懲してやるのだと意気込んだのです。
その外蒙軍をソ連軍が支援していることも、ソ連空軍がノモンハン上空を跳梁し、関東軍航空部隊と空戦を繰り広げていることも無視されました。

小松原師団長は第23師団所属の第64連隊第3大隊を中心として、連隊砲中隊と速射砲中隊の山砲と速射砲を3門ずつ、それに先日出動した東捜索隊と満州国軍騎兵部隊を加え、それを支援する輜重部隊(補給担当)を合わせて約2000名の兵力を派遣します。
指揮を取るのは第64連隊長山県武光(やまがた たけみつ)大佐でした。

5月23日。
山県大佐の支隊はノモンハンへ向けて出動。
小松原師団長はそのことを関東軍司令部へ報告します。
しかし、報告を受けた関東軍司令部は意外にもこの山県支隊の派遣は時期尚早だと考えました。
「満ソ国境紛争処理要綱」にもあるがごとく、一気に敵を殲滅するためには敵軍を満州国内に誘致し、それから大兵力で殲滅する考えだったのです。
外蒙兵300程度が越境してきたぐらいでは、静観をする方針でした。

関東軍司令部の考えを知らされた小松原師団長は、逡巡した挙句に山県支隊をカンジュル廟というラマ教の拠点がある場所で待機させました。
ここで関東軍司令部がさらに撤収を指示していればこの後の悲劇は防げたかもしれません。
しかし、5月24日、関東軍司令部は以下のような命令を発します。
「カンジュル廟に兵力を出したからには、速やかに目的を達して帰還すること」
つまり、一戦交えるなり何なりして外蒙軍を追い払い帰還せよとのことです。
山県支隊の派遣は認められたのでした。

山県支隊のこの一時待機はソ連軍に貴重な時間を与えてしまいます。
ソ連軍工兵部隊が、ハルハ河に橋を架けてしまったのです。
これでソ連軍は兵力を自由に渡河させることができるようになりました。
BA-6型装甲車(当時の装甲車としては桁違いの45ミリ砲を搭載)を始めとする装甲車39両などソ連軍機械化狙撃兵大隊(ソ連軍は歩兵を狙撃兵と呼びました)を中核とした約1400名ほどの戦力が、有力な火砲の支援の下ハルハ河東岸に布陣して、山県支隊を待ち受けることになったのです。

その様子を山県大佐は薄々は知っていたようです。
しかし、彼は逆に意気盛んでした。
ソ連軍も出てきているということは、今度は簡単には逃げないだろう。
だとしたら大いに手柄を立てるチャンスだ。
そう考えてでもいたようでした。
何せ彼は、同行していた新聞記者に面白いことが見られるよとまで言っていたのです。

5月28日。
山県大佐は部隊を三方に分け、ハルハ河とホルステン河の合流点(日本軍は川又と呼称)付近に敵を包囲するべく攻撃を開始します。
中央と左翼を山県支隊が、右翼を東捜索隊が受け持ち、それぞれ払暁より各個に攻撃を開始。
東捜索隊は持ち前の機動力を生かして川又近辺まで進出、そこで逃げてくる敵を包囲する役目を受け持っていました。

幸い東捜索隊はさしたる抵抗を受けることなく川又付近まで進出します。
しかし、そこは敵陣のど真ん中でした。
以後、東捜索隊は山県支隊主力と切り離されたまま、絶望的戦いをすることになります。

山県支隊主力も夜の闇の中で展開したため、自隊の位置も不明のまま各所で戦闘に入らざるを得ませんでした。
日本軍の小隊中隊がソ連軍と苛烈な戦闘に入る中、東捜索隊もソ連軍の猛攻を受け円陣を組んだまま兵力を減らされていきました。

装甲車に支援されたソ連兵に対するに、日本兵は肉弾で対処するより仕方ありませんでした。
対戦車砲も自軍の戦車も無く、歩兵は手榴弾で何とか撃退しなくてはならなかったのです。

5月29日。
山県支隊とは連絡の取れぬまま、東捜索隊は食料も弾薬も無く、午後7時ごろ壊滅します。
敵中に孤立し、わずか200名ほどのこの捜索隊は二日間も粘ったのですが、ついに援軍は到着しませんでした。
それどころか、山県支隊も非常に危うい状況でした。
ソ連軍の火砲と装甲車によって、各所で日本兵は蹂躙されていたのです。

しかし、山県支隊の苦戦も東捜索隊の壊滅も師団長たる小松原中将は知りませんでした。
無論関東軍司令部も知りませんでした。
ですから、関東軍司令部からは、「貴隊の赫々たる戦果を慶祝す」などという電報が小松原師団長の元に届けられ、小松原師団長は山県支隊に宛てて、もう充分敵を痛めつけただろうから28日をもって作戦を終了、集結せよとの無電を送っているのです。
なんというバカな話ではありませんか。

29日になって小松原師団長は慌ててハイラルより第71連隊第2大隊を中核とする部隊がノモンハンに投入されます。
ソ蒙軍は日本軍が増援を出してきたことを知るといったん後退。
ハルハ河西岸へ引き上げました。

5月31日。
日本軍は手痛い損害を受け、東捜索隊の遺体を収容して戦場を離脱。
第一次ノモンハン戦は自然集結となりました。

辻参謀は敗因を第23師団が新設であるゆえの相互支援の不備によるものと片付け、それにしてもと続けます。
「外蒙軍にあれほどの戦車装甲車があるとは思わなかった・・・」

東捜索隊の損耗率は63%。
220人中139人が戦死傷しました。
完敗でした。

その12へ
  1. 2007/08/23(木) 20:55:16|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン10

今日もASLをソロプレイ。
SK1のシナリオS6をプレイしました。

ソ連軍が最後まで押しておりましたが、最後の最後でドイツ軍の分隊を除去できず、ドイツ軍の辛勝でした。

さて、今日はノモンハンの10回目です。
いよいよ戦闘が始まります。


第23師団長小松原道太郎中将は陸軍きってのソ連通として有名でした。
中尉の時にロシア語研究のためロシアに派遣。
その後も大尉の時にロシア大使館つき武官補佐官、中佐の時にソ連大使館つき武官と何度もソ連に派遣されていたのです。
その後はハルビンにあった関東軍特務機関の機関長も勤め、歩兵第8旅団長、第2独立守備隊司令官などを経て第23師団長となりました。

経歴から言って、確かにソ連については詳しかったと思われる小松原師団長でしたが、反面部隊指揮の経験には乏しく、与えられた師団も新設の三単位師団(連隊が三つしかない)ということで、関東軍司令部においてはその戦闘力に疑問符がつけられておりました。
関東軍参謀の辻少佐は、新婚早々の新世帯で、鍋釜だけで店開きした師団に過ぎないと言い切っており、侮蔑感さえ漂わせておりました。

当然、関東軍司令部のその雰囲気は小松原師団長も察しており、加えて越境ソ蒙軍(ソ連及び蒙古軍)を断固撃滅するという「満ソ国境紛争処理要綱」が下達されたばかりの時期とあっては、ここで第23師団を持ってソ蒙軍を撃退すれば、師団に対する不評もぬぐうことができる上に自身に対しても評価が上がると考えたとしても無理からぬことだったでしょう。

満州国国境警察よりの出動依頼に小松原師団長は第23師団の一部を派遣することを決めました。
「昨12日朝来、外蒙軍約700がノモンハン南方においてハルハ河を渡河し不法越境、満州国軍と交戦中」
「防衛司令官(小松原中将のこと)は師団(第23師団)の一部及び在ハイラル満軍(ハイラル駐在満州国軍)全軍をもってこの敵を撃滅せんとす」
この電報が関東軍司令部に到着したのは昭和14年(1939年)5月13日のことでした。

この時辻少佐は、「関東軍司令部の幕僚中誰一人としてノモンハンという地名を知っているものはいなかった」と後の手記に書いています。
満州国成立以後、年を経るごとに増えていった国境紛争に関連する地名を満州国防衛の責任を負うとしていた関東軍の幕僚が知らないなどということがありえるのでしょうか?
もし事実ならば、関東軍は満州防衛の責任など果たしえなかったでしょう。
自己弁護だと考えた方が良さそうです。

関東軍司令官植田大将は、すぐさま小松原中将を支援するべく航空隊や自動車隊を派遣。
バックアップを万全にします。
その上で東京の参謀本部に外蒙兵の侵入を報告し、参謀本部もその旨了承して次のような電報を関東軍に送りました。
「軍(関東軍)の適切なる処置を期待されあり」

当時の陸軍のソ連軍軽視は以前にも書きましたが、ソ連通と言われた小松原中将も例外ではありませんでした。
ソ連軍でさえ日本軍の3倍の数でも対処しうると豪語する関東軍にあって、ソ連軍に指導されているとは言え外蒙軍などはいくら数がいても鎧袖一触であるとの考えが小松原中将にはあったでしょう。

そのため、小松原中将は、外蒙兵約700という報告に対し、東八百蔵(あずま やおぞう:一部資料ではひがし やおぞうとなっている)中佐を長とする第23師団第23捜索隊(敵兵力捜索や威力偵察に当たる部隊)を中心とした約300名の部隊を送り出します。
「断固敵を撃滅せん」と言っておきながら、約700と言われる敵に対し300の兵力を送るあたり、小松原中将ひいては関東軍の敵を蔑視する風潮がうかがえます。

5月15日。
東捜索隊の到着により、越境してきていた外蒙軍(報告上は700だが、実際は60名ほど)は、抵抗しても無駄だとして早々にハルハ河を渡って退却します。
関東軍は越境してきた外蒙軍を追い返すという目的は達しました。

小松原中将は東捜索隊に同行した満州軍第8団にそのまま現地にとどまるよう指示し、東捜索隊はハイラルに戻るよう指示しました。
外蒙軍は精鋭関東軍が出て行けば逃げるだけ。
何も恐れることは無い。
小松原中将も関東軍司令部もそれを確信したにとどまりました。
小松原中将にいたっては、出動しても戦火を交えることも無かったため、もっと早く現地へ到着しないと逃げる敵を追いきれないとして、食料や弾薬を減らして出動することすら考えるのです。
後の戦闘で食料弾薬の不足に苦しむことになるなどまったく思いもよらなかったのでした。

さらにこの時、関東軍はやってはならないことをしていました。
植田司令官により小松原中将の指揮下に加えられていた航空隊の一部が、満州国側の主張する国境線すら越えて外蒙軍を攻撃しているのです。

誰が命じたものかは現在わかっていませんが、天皇陛下の命令なくしては国境を越えることのできないはずの日本陸軍(関東軍)はまったく頓着することなく国境を越えて外国軍を攻撃したのです。
これはとんでもないことであり、命じた方は銃殺にされても文句は言えない行動でした。
しかも、この攻撃により、日本軍に脅威を感じたソ連がいよいよ本腰を上げて戦闘参加を考えたのです。

また一つ、タガが外れました。

その11へ
  1. 2007/08/19(日) 20:40:20|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン9

1でも書きましたが、満州国がモンゴル(外蒙古)と接する満州国北西部突出部、その南側に位置するのがノモンハンでした。
ノモンハンというのはもともとはラマ僧の役職名だったそうです。
最高位のフトフクに次ぐものであり、このあたりにラマ僧の墓があったことから地名になったものらしいです。

このあたりは草原と砂丘が続くなだらかな丘陵地帯で、いわゆる草の海とも言うべき広大な平原です。
その中にノモンハンという集落があり、地域一帯がホロンバイルと呼ばれておりました。
夏のノモンハンは膝丈の草が生い茂り、いい牧草となったため、牧畜を主とする蒙古人がヒツジなどを連れて放牧しながら移動するそんな場所でした。

ホロンバイルの中をハルハ河という河が流れており、そこから分かれた支流のホルステン河がノモンハンの付近を流れています。
このあたりにはホロン湖やボイル湖などいくつかの湖沼がありましたが、そのほとんどは塩水湖であり飲用には適しません。
一方ハルハ河やホルステン河は真水であり、人間にも家畜にも貴重な水として重宝されておりました。
つまり、広大な草の砂漠の中では、ハルハ河やホルステン河以外では真水は手に入れることが非常に困難だったのでした。

このホロンバイルの中を満州国とモンゴル(外蒙古)の国境線が走っていたのですが、この国境線が不明瞭でした。
もともとこのあたりは、蒙古人の遊牧民が家畜を連れて移動していたので、境界という概念が希薄でありましたが、ソ連及びモンゴルと満州国及び日本の国境線の認識がずれていたことも大いなる問題の一つでした。
これはもともとソ連とモンゴルは、中国(清朝)との国境線はハルハ河より東側約十五キロ乃至二十キロ離れた地点を結ぶ線としていたのに対し、中国(清朝)側はハルハ河中間点を国境として認識していたということが発端でした。
清朝より独立したという形の満州国としては、当然ハルハ河が国境線だと信じていましたし、関東軍もそれを信じて疑いもしませんでした。
国境が河よりも東側にあるとは夢にも思わなかったのです。

モンゴル人民共和国(日本側呼称外蒙古)は1924年(大正13年)に独立しておりましたが、ソ連型の社会主義国を目指しており、ソ連とは切っても切れない関係にありました。
自国軍も持ってはおりましたが、関東軍を中心とする満州国の軍事力には抗しえるはずも無く、ソ連軍の駐屯を認めて防衛を共に行なっておりました。
いわば、衛星国家だったのです。

もともと国境という概念が希薄な上に、家畜の移動に連れて移動する遊牧民が、ハルハ河を超えてノモンハン方面に草場を求めてくるのはある意味当たり前でした。
しかし、そこ(ハルハ河)は満州国にとっては国境です。
ハルハ河を超えることは無断越境に他なりませんでした。
ノモンハンの集落には、満州国の国境警察分駐所が置かれ、満州国警察が不法越境を厳しく取り締まることになったのです。

最初は遊牧民を威嚇程度で追い払っていたものが、やがて遊牧民の護衛に外蒙(モンゴル)兵がくっついてくるようになると、小銃の撃ち合いなどが行われるようになりました。
こうしてこのノモンハン周辺でも、国境紛争が頻発するようになります。

昭和14年(1939年)5月4日。
外蒙兵がバルシャガル高地(ハルハ河を超えノモンハン集落に近い丘)を偵察中とのことで、満州国国境警察がこれを攻撃。
幾人かを捕虜にします。

5月10日。
ハルハ河を東西に渡る渡河点付近を警備中の満州国国境警察隊に対して外蒙側から射撃を受け応戦。
これは外蒙側から見れば、満州国国境警察による不法越境に対し攻撃したということになります。

5月11日。
この日も満州国国境警察と外蒙軍との間に衝突があり、外蒙側に死傷者が出る事態となります。

5月12日。
度重なる満州国国境警察の不法越境(と外蒙は考える)に業を煮やした外蒙軍は、約60名の兵力で越境攻撃(と満州国は考える)をしてきました。

ことここに至り、満州国国境警察は上部組織であるハイラルにある満州国軍第十軍管区司令部に通報。
満州国軍は直ちに応戦の準備を整えると共に、外蒙兵越境の事実を関東軍の第23師団に通報いたします。
関東軍に派遣されていた日本陸軍第23師団は、ホロンバイルを含む満州国西北部方面の防衛担当であり、当然ノモンハン近郊の外蒙軍の越境に対処する担当となるのです。

日本陸軍第23師団は九州熊本を中心とした地域の人々によって1938年(昭和13年)に編成されたばかりの新しい師団でした。
さらには、従来の師団が歩兵連隊を四つ持つのに対し、連隊が三つで編成される多少小型化された師団でもありました。
そのため、関東軍でも新編師団としてその戦闘力にはまだまだ信が置けないと考えられてもいました。
おそらく、対ソ連との直接対決となるソ満国境は荷が重い。
そう考えられて、直接ソ連と接しないこの満州国西北部方面に回されていたのです。

満州国軍の報告を受けた第23師団司令部は、最初満州国軍に任せて静観の構えを取りました。
しかし、日本軍が満州国軍を見捨てるのかという訴えに、師団長の小松原道太郎(こまつばら みちたろう)中将も師団の出動を命じます。

ノモンハンの悲劇が始まってしまいました。

その10へ
  1. 2007/08/14(火) 19:09:02|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン8

張鼓峰事件以後、国境紛争に対しては強硬な態度を取るようになる関東軍ですが、参謀本部はそれに対して制御不能状態に陥っていました。

一つには中国での戦いが泥沼化しつつあり、それに対して国力を傾注せざるを得なかったこと。
二つ目には、その中国を後押しする米英を牽制しようと、独伊との間に三国軍事同盟を結びたい陸軍に対し、米英を敵に回すわけには行かないとする海軍側との軋轢がのっぴきならない事態になりつつあったこと。
この二点を中心とし、さらにもろもろのことが重なって参謀本部は手一杯の状態になっていたのです。

この上、ソ連と事を構えることはできない。
参謀本部の判断は正しいものでした。
しかし、それは関東軍にとっては弱腰以外の何者にも思えなかったのです。

参謀本部にとって関東軍の役目は、対ソ戦に備えてその準備を怠り無く行なうことであり、満州国の国境の不確定部分を多少ソ連(外蒙含む)に侵入されたとて、どっしりと構えて微動だにせずにいれば、ソ連もそれほど無茶はしないだろうという考えでした。
つまり、参謀本部は張鼓峰事件に鑑み、対ソ強硬路線は引っ込め、「侵されても侵さない」を関東軍に命じました。

面白くないのは関東軍でした。
関東軍は満州防衛に責任を持つ軍です。
それが国境を侵されても無視しろと言われたのであれば、面白いはずがありません。
「侵されても侵さない」というのであれば、満州国を見捨てろというのか?
関東軍作戦課は憤慨しました。
そして、関東軍独自の国境紛争に対する解決法を提示します。
「満ソ国境紛争処理要綱」です。

この「満ソ国境紛争処理要綱」は、関東軍作戦課の俊英辻正信(つじ まさのぶ)少佐が起草し、服部卓四郎(はっとり たくしろう)中佐の承諾を得て関東軍司令官植田謙吉(うえだ けんきち)大将が発表したものです。
ですが、その内容たるやあきれかえるものと言っていいでしょう。

確かに「満ソ国境紛争処理要綱」の出だしにはこうありました。
「軍(関東軍)は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の基本方針とする」
つまり、ソ連軍(外蒙軍含む)が優勢であるとは言えども、国境線に関してはお互いにこれを侵さず侵されずという形を取るというものでした。
しかし、そこから先が問題でした。
「万一ソ連軍が越境して来た時には、周到なる準備計画の下に徹底的にこれを膺懲(ようちょう:懲らしめ思い知らせること)せしめ、ソ連の不法なる野望を初動において粉砕する」
つまり、ソ連軍がもし国境を越えて満州国に入ってきたら、関東軍は戦力を集中してこれを撃滅するというものでした。

これ自体は国境防衛として特に問題があるとは思えないのですが、その方法が問題だったのです。
「そのためには、一時的にソ連領に侵入したり、ソ連軍を満州国領内に誘致、滞留せしむるも可」
「国境線不明瞭なりし地域においては、現地防衛司令官が自主的に国境線を認定し、第一線部隊に指示すると同時に、戦力の多寡国境線の如何なりとも必勝を期す」
つまり、満州国政府ひいては日本政府とソ連政府が外交で話し合うべき国境線を、現地司令官が勝手に判断して国境と主張し、勝手に判断した国境をソ連軍が越えるよう仕向けることができ、そこを越えたソ連軍を排除するためには、天皇陛下の命令が無ければできないはずの軍の国境線の越境をしてもよいと言っているのです。

まさに関東軍は言ってはならないことを言っていたのです。
この命令は参謀本部を無視するだけではなく、全軍の司令官たるべき大元帥陛下(天皇陛下)をも無視することになるのです。

関東軍はこの「満ソ国境紛争処理要綱」を、一応は参謀本部に提出し認可を求めました。
しかし、連日中国での諸問題や、それ以上に日独伊三国軍事同盟の締結に向けて政府や海軍と角突き合わせている状況の参謀本部は、この「満ソ国境紛争処理要綱」に明確な指示を出しませんでした。

明確な指示を出さないということは許可できないということだから、少し頭を冷やして考え直せ。
これが参謀本部の考えであったかもしれません。
提出された「満ソ国境紛争処理要綱」が頭ごなしに否定されては関東軍の面子がなくなるだろう。
だから何も言わないことで、関東軍が察するのを待つということだったのでしょう。
しかし、関東軍司令部はそうは考えませんでした。
提出した「満ソ国境紛争処理要綱」がまずいなら何か言ってくるはず。
何も言ってこないということは、参謀本部はこの処理要綱を認めたのだと考えたのです。

こうして関東軍はこの「満ソ国境紛争処理要綱」を基本方針としてしまいます。
またしても悲劇を止めるタイミングを逸しました。

その9へ
  1. 2007/08/07(火) 20:51:29|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン7

訂正:ノモンハン6の記事中に、ソ連の友邦国である内蒙古含むという部分がありましたが、友邦国である外蒙古含むの誤りでした。
お詫びして訂正させていただきます。
(記事は修正しました)


ネルチンスク条約によって規定されていたロシアと中国(清朝)の国境線でしたが、ソ連はロシアを、満州国は中国をそれぞれ引き継ぐような形で、国境線については認識されておりました。

しかし、この国境線があいまいなものであることは今までも述べたとおりであり、特にソ連と接する満州国東北側国境と、ソ連の友邦国外蒙古(モンゴル人民共和国)と接する満州国西部ホロンバイル草原は国境線があいまいで、国境を示す境界標自体が少なく、またその境界標も勝手に動かされる有様であり、国境守備隊にとっても頭痛の種だったのです。

そのため、両軍の国境守備隊が、知らずに相手の主張する国境を越えてしまい、越境として攻撃を受ける。
そんな事態が数多く起こっておりました。

それでも、満州事変により満州国が成立した昭和7年(1932年)から、昭和9年(1934年)までの間は二年半で152件。
越境の規模も一人二人から数人が越境し、小銃を撃ち合う程度のものでした。
ところが、昭和10年になると、国境紛争が激増します。
わずか一年の間に136件。
しかもその中には、関東軍が騎兵集団を出動させた満蒙国境での「ハルハ廟事件」が含まれました。
これは国境紛争が激化の一途をたどり始める最初の例です。

さらに昭和11年(1936年)には203件の国境紛争があり、その中には関東軍が航空機と機械化部隊まで投入した「タウラン事件」「オラホドカ事件」など、大きな事件も含まれます。

こうした中、日本も決して手をこまねいていたわけではなく、日本政府はソ連に対して、日満ソ三ヶ国による国境紛争防止のための三国委員会設置が提案されています。
しかし、日本側がこれを機にソ連に実質的な満州国承認をさせようと目論む(国境線が決まるということは、相手を独立した国家だと認めることになる)のに対し、ソ連はあくまで満州国承認を拒むためにすでに国境線については中国(清朝)と確定済みとの態度を崩さなかったため、交渉は暗礁に乗り上げます。
結局、国境紛争に関してはそのつど、交渉で決するよりほかありませんでした。

そんな中、昭和12年(1937年)についに「カンチャーズ(乾岔子)事件」が発生します。
これは、ソ満の北部国境である黒竜江に浮かぶ小島が舞台でした。

黒竜江の中に浮かぶカンチャーズ島を含むいくつかの小島に、日満人が上陸したとして、ソ連側から満州国に抗議があったのが2月頃でした。
しかし満州国側はなんら手を打たなかったのか、ソ連側が埒があかないとみて、少数のソ連兵が上陸、実力で国境を保持しようとします。

それに対し、関東軍は一個師団を現地に派遣、ソ連軍を威嚇しました。
ソ連軍も黒竜江に砲艦や砲艇部隊を集め、関東軍ににらみを利かせます。
両軍はまさに一触即発の状態での対峙となりました。

驚いたのは日本本土です。
このままでは大規模軍事衝突になると考えた陸軍中央部である参謀本部は、カンチャーズ島などという小島は国力を傾注して争うようなものにあらずとして、事件の不拡大を図り、解決は外交交渉によるものとして、関東軍に自重を求めます。
しかし、現地の関東軍はこのような参謀本部の考えを弱腰と感じ、ソ連に一撃をすべしとしてソ連軍の砲艦を一隻撃沈してしまいました。

結局この事件はソ連側の譲歩によって事なきをえますが、現地軍に対する参謀本部の統制力の弱さを表わしたものとなったのです。

そして、翌昭和13年(1938年)「張鼓峰(ちょうこほう)事件」が発生します。

ソ連、満州、朝鮮の国境が入り組む満州東部は以前から国境線が不明瞭であり、いくつもの国境紛争が起きているところでした。
その一画、張鼓峰という標高150メートルほどの丘陵がこの事件の中心となります。

この近辺の丘陵は日ソ双方が満州事変以後お互いに取ったり取られたりという状態でしたが、昭和13年7月11日、約40名のソ連軍兵士が張鼓峰頂上付近に陣地の構築を始めたのです。

すでに日華事変以後の中国との戦争に入っていた日本は、この程度のことは無視してソ連と事を構えるつもりはありませんでした。
事実、この近辺の防備を担当する朝鮮軍(日本の朝鮮方面軍という意味)司令官小磯国昭(こいそ くにあき)大将は大本営(陸海軍を統率する部署。戦時に置かれるが、日華事変=日中戦争で昭和12年11月に設置)に対し、軍事行動は控える旨を表明しておりました。

しかし、大本営内部でもこの際ソ連が日中戦争に介入してくるつもりかどうかを確認する意味でも、ソ連と限定的戦闘を行い国境より排除するという考えを持つ者がいました。
さらには関東軍も張鼓峰に参謀を派遣し、ソ連に対して攻撃を主張するものが現れます。

そこで大本営では限定戦闘を本格的戦争に発展させないことを条件に、現地の第十九師団のみを使用するのであれば認めるという態度にでます。
そして、対外的な軍事行動に必要な天皇陛下のご裁可を得るために参内するのですが、外務省、海軍、そして何より天皇陛下ご自身がこれに反対。
結局、参謀本部は作戦行動の中止を命じました。

この命令は現地の第十九師団長尾高亀蔵(おだか かめぞう)中将には不満でした。
目の前でソ連兵が跳梁跋扈しつつある現在、師団としては断固これを撃滅したくなるのは当然のことだったかもしれません。
しかし、大局というものは目の前の出来事だけで計れるものではありません。
尾高中将は歯を食いしばりながらでも撤退するべきでした。

第十九師団の撤退が始まった7月29日、ソ連兵はその鼻先で張鼓峰北方沙草峰(さそうほう)の山頂にまで陣地を築き始めます。
尾高師団長は、これは張鼓峰での一件とは別物であると断じ、朝鮮軍司令部にもその旨を通達。
朝鮮軍司令部も大本営も沙草峰は別個として考慮することを了解するものの、師団が戦闘に入ることは禁じます。
しかし、尾高師団長はこれを無視。
独断で師団に攻撃命令を下しました。

7月31日、第十九師団の一個連隊が張鼓峰付近を占領。
後退したソ連軍は、8月2日になって航空機、戦車、重砲の支援の下で反撃に出ます。
単なる歩兵師団である第十九師団はたちまちのうちに苦境に陥ることになりました。

損害重なる第十九師団は厳しい状況に追い込まれますが、大本営は撤退など認めることはできませんでした。
全滅必至と思われた第十九師団でしたが、この状況を救ったのは日ソの外交交渉でした。
外務省の重光葵(しげみつ まもる)駐ソ大使とソ連のリトビノフ外相との間で停戦交渉が成立したのです。
ソ連側有利の状況でしたが、国際世論がソ連側によくない反応を示し始めていたので、ソ連としても引かざるを得なかったのでした。

結局第十九師団は20%という損害を受け、全滅に等しい被害を受けました。
一師団長の独断は師団の壊滅という事態を生んだのです。
しかし、尾高師団長の独断は不問に付されました。
限定戦闘を主張した参謀も朝鮮軍に戦闘を進言した参謀もなんら責任を問われませんでした。

そして、この張鼓峰事件は関東軍と参謀本部に異なった見解を受け付けてしまいます。
参謀本部は国境紛争については出来るだけ外交交渉で解決し、軍事力の行使を控えようという、きわめて健全な思考を持つに至りますが、関東軍は国境を侵されても逡巡する参謀本部を及び腰と考え、参謀本部は頼りにならず、おのれの実力でソ連軍を打ち砕くのみと考えるようになるのです。

しかも、両者に共通して言えたのが、この事件によってもたらされたソ連軍の実力を検討することをまったくしなかったということでした。

かくしてノモンハンの悲劇は満州の野に醸成されていくことになるのです。

その8へ


明日から四日間連続でSSを一本投下します。
たいしたものではありませんが、楽しんでいただけると嬉しいです。
  1. 2007/08/01(水) 19:30:35|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン6

「満州国」(正式には満洲国。当用漢字表の趣旨に基づき教科書で使われる字体で表記)は日本の傀儡国家であるとは言え、れっきとした独立国としての体裁は整えておりました。
無論、独立国と言っても、それは各国に承認されなければなりません。
しかし、当時ソビエト連邦(以下ソ連)は、満州国を独立国としては承認しておりませんでした。

最終的(太平洋戦争終了時まで)には当時の世界の三分の一に当たる23ヶ国が承認(準承認含む)をした満州国ですが、ソ連は承認をしていません。
ソ連にとっては満州は中国の一地方に過ぎなかったのです。

そうなると、独立国家同士で決められるべき国境というものを、満州国とソ連の間で取り決めることができませんでした。
ソ連はあくまでも中国(清朝)との間の取り決めであるネルチンスク条約に基づいた国境線を中ソ国境とし、日本側も一応はそれでよしとみなすほかなかったのです。

しかし、このネルチンスク条約も国境線に関してあいまいなところが多い条約でした。
一望千里の草原や砂漠が多い土地では、国境線があいまいになるのは仕方ないことだったのかもしれません。

ですが、満州国にとっては大事な国境線であり、満州国の治安と防衛を担当する満州国軍、ひいては関東軍にとっては無視できないものでもありました。
満州国軍が頼りになるものではない以上、満州国の防衛はひとえに関東軍にかかっており、国境守備も関東軍の重要な任務の一つだったのです。

大日本帝国陸軍にとっては、日露戦争以来その主敵はロシアであり、その後を継いだソ連でした。
満州事変以後上海事変などで中国と戦争状態にありましたが、あくまでも陸軍にとっては主敵ソ連であり、特に満州国に駐留し常に隣国であるソ連の脅威を感じていた関東軍にとっては、その思いは必要以上に強いものでした。

第一次世界大戦後、ロシアでは革命が発生し、それに呼応するように各国がシベリアへ出兵します。
日本も各国軍の中で最大級の出兵をしますが、さほど益も無く、かえって最後まで出兵を続けていたために各国の批判を浴びました。
このシベリア出兵から満州事変に至るまでぐらいの間は、ソ連にとっても国内が落ち着かない時期でもあったために、満州方面でのソ連の行動はおとなしいものでした。

しかし、昭和8年(1933年)に始まった、ソ連の第二次五ヶ年計画は極東の開発が重視され、ウラジオストックを中心とするソ連極東方面は著しい経済開発と、軍事力の増強が行なわれることになります。
一方、満州防備に任じる関東軍も、広大な満州全土を守るために飛躍的な増強を見ますが、やはり日本の国力から言って、ソ連とは格差が生じます。

この背景には国力差もそうですが、ソ連の対日不信感の増大も一因でした。
ソ連は革命政権の基盤が整わないうちは、日本と事を構えたくないとして、昭和6年(1931年)には相互不可侵条約を申し入れました。
しかし、当時の日本政府は赤色革命によって生じた共産主義政権に対する恐怖と嫌悪からこれを拒否。
ソ連側は対日融和としてさらに東支鉄道の売却を持ちかけますが、これもすったもんだの挙句、売却成立までに二年を要する結果になります。
このため、ソ連は対日不信感を強め、東支鉄道売却で得た利益の大部分で、ソ満国境にトーチカ群を築くという行為に出ます。
ソ連は日本との融和をあきらめたと言っていいでしょう。

一方、日本側、特に関東軍はソ連が軍備力を強化して行くのを知りませんでした。
いえ、知っていたとしても無視しました。
関東軍の軍備を増強したとは言っても、歩兵師団三個、機械化師団一個を中心とする五万人の兵力では、極東ソ連軍二十三万にはどうあっても太刀打ちできません。
しかし、そのことを指摘するものは、「恐ソ病患者」と呼んで非難しました。
精強帝国陸軍にあって、なおその中の精強を持って自負する関東軍は、たとえ敵が幾万ありとしても、強靭な精神力を持ってあたれば、鬼神もこれを避くようにソ連軍に対しても対処できると見ていたのです。

確かにソ連軍はいくらかは増強しているだろう。
しかし、烏合の衆であるし、日露戦争では負けたではないか。
これからもこちらが断固たる態度で臨めば恐れるに足らん。
必要なのはソ連に舐められないことである。
数を頼んでこちらが少数であるがゆえに舐めた行動をソ連が起こした場合は、断固として一撃をするべきである。
そうすればソ連は懲りて満州にちょっかいをかけることもなくなるだろう。
とにかく舐められないことが肝心だ。

関東軍はそう考えていました。
以後、ソ連(ソ連の友邦国である外蒙古含む)と満州国との間の国境線不明瞭な地域における衝突は激化の一途をたどります。

その7へ
  1. 2007/07/30(月) 21:08:09|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン5

「満州事変」によって成立をみた「満州国」ではありましたが、国際社会はその以前に満州事変が中国に対する日本の侵略であるかどうかについて調査を始めておりました。
具体的には国際連盟による調査団の派遣でした。

英国のロバート・リットンを団長とし、ほかに米、仏、独、伊の各団員からなる調査団は国際連盟によって派遣されたのですが、意外なことに調査団の派遣そのものは日本の提案でなされたものでした。

これは、関東軍の謀略によって国際的な信用が失墜していた日本として、国際社会に配慮していることをアピールする目的もあったでしょう。
しかし、より一層の目的としては、調査団が調査をし何らかの報告が出るまでは、日本に対して国際的な決議は行なわれないはずであり、その時間的猶予のうちに満州国を独立させて既成事実化しようと目論むものでもありました。
実際、リットン調査団の調査終了後、報告書の提出される前というタイミングで満州国は日満議定書を交わし、日本は満州国を承認しているのです。

昭和7年(1932年)10月に提出されたリットン調査団の報告書は、10章からなるもので外務省が翻訳したものはなんと289ページにも及ぶものでした。
その内容としては、柳条湖事件以後の日本軍の行動(いわゆる満州事変)は、中国の行為に対する自衛行動とはとても言えず、また満州国も中国人民の自由意志に基づくものではないため、日本の行為は侵略であると断定したものでした。

しかし調査報告書は、日本の行為は自衛行動をはるかに越えるものではあるものの、その根底には中国の排日反日行為があり、その中国側の行為に何より苦しんだ日本が、半ば自暴自棄的に侵略行為に及んだことも否定できないとして、中国側にも大きな責任があると断じてもいたのです。
これは、日本の主張で調査団の構成メンバーを当時の大国に限定したため、植民地支配という利害関係を持つことから、日本の主張もある程度は汲んでやろうという意志が働いたもののようでした。

この報告書を受け、国際連盟は満州問題に対して次のような提案をします。
満州事変以前の状況へ戻すことも、満州国を存続させることも日中双方にとって受け入れられない以上、満州から相互の兵力を撤兵し、国際機関によって管理する自治区とするというものです。

対外的には日中ソ三国による相互不可侵条約により国境を保全され、国内的には外国人指導の下による特別憲兵隊を置くことで管理し、行政も外国人顧問が広範囲に指導するというもので、外国人顧問の数に関しては日本人の割合を多くすることで充分に考慮するという、日本に配慮した提案だったのです。

しかし、日本はもう日満議定書の取り交わしなど満州国を完全に承認する旨を発表しており、この案は受け入れられないと突っぱねます。
日本国内にも満州国の承認は日本にとって不利なことばかりと考える人々もいましたが、軍主導によるマスコミのコントロールなどにより、日本国内はもはや満州国は日本と一体であるという気分が醸成されてしまったのでした。

結局国際連盟との間に妥協は成立せず、昭和8年(1933年)2月24日、日本代表松岡洋右(まつおか ようすけ)は国際連盟議場を退場。
日本は国際連盟を脱退し、孤立化を深めていくことになりました。

関東軍にとっては日本や世界がどうあれ、満州国というソ連に対する防壁ができたことは多いに喜ばしいものでした。
もともと陸軍は、日露戦争以後主たる敵はソ連であるとの認識を持っておりました。
その点、主たる敵をアメリカと定めた海軍とはすでに向いている方向からして違っていたのです。

日満議定書の取り決めによって、満州国に対する関東軍の影響力は絶大なものがありました。
もともと関東軍が作った国家ですから、関東軍がどのようにでもできたと言っても過言では無いのです。
関東軍司令官は、本来なら日本政府が任命するはずの特命駐満全権大使と関東庁長官を兼ねることとなり、関東軍の満州における駐兵権や関東軍司令官による満州国官吏の任免権、鉄道を始めとする陸海空の交通の管理権、国防上重要とみなされる鉱山の設定権など、満州国は関東軍が政府だったと言っていいでしょう。

こうして、「満蒙は日本の生命線である」という掛け声の下、弱体な満州国軍(日本人以外の満州国内居住の住民によって編成。日本人は満州居住でも軍に入るなら関東軍に入ることになる)を補佐し、広大な満州国(日本の約三倍の国土)を防衛するため増強の一途をたどります。

関東軍とソ連軍が国境をはさんで向き合う形が出来上がったのでした。

その6へ
  1. 2007/07/27(金) 20:33:26|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ノモンハン4

関東軍高級参謀であった石原莞爾中佐は、これからの戦争は国民全てが戦争に参加する国家総力戦であり、陸海空一帯の立体的戦争であるという、当時としては先進的な考えの持ち主でした。
その上で、いずれは日本とアメリカが世界を二分する大戦争を戦うこととなり、それが世界の帰趨を決める世界最終戦争になるという考えの持ち主でした。

しかし、そのためには日本が人口や食料、資源などの諸問題について解決することが必要であり、その解決策としては満州及び蒙古、いわゆる満蒙を日本の領土としてその広大な土地を活用することがもっともいいと考えるようになります。
満蒙はもともと漢民族の土地ではなく、そこに住む人々も漢民族よりはむしろ大和民族に近く、日本が満蒙を領有し治安維持と開発を行なうことによって、満蒙と日本はともに発展することができる。
そういうある意味身勝手な考えを持ったのです。

石原中佐の満蒙領有論は関東軍の上層部に受け入れられ、関東軍はいずれ満蒙を領有することこそ日本のため、ひいては陛下の御ためにもなることと歪んだ考えを持つようになります。
折りしも昭和6年(1931年)6月、対ソ連作戦の兵要地誌作成のためひそかに満州奥地に潜入していた中村震太郎(なかむら しんたろう)大尉と井杉延太郎(いすぎ のぶたろう)予備役曹長の二人が、中国第三屯墾軍にスパイとして捕らえられ殺害されるという事件が起きました。
いわゆる中村事件です。

石原中佐ら関東軍上層部は、この事件を契機に満蒙を武力で制圧し、日本領にしてしまうという事を考えました。
関東軍の考えを知らされた陸軍中央部は、終始弱腰であり、武力行使には反対したものの積極的中止命令を出すようなことはしませんでした。
一方中国側は関東軍の強硬な態度に驚き、殺害犯を調査して引き渡すことも視野に入れた交渉を求めましたが、すでに行動に入ろうとしていた関東軍には通じませんでした。

昭和6年(1931年)9月18日。
奉天(現瀋陽)の近く柳条湖(りゅうじょうこ)付近の満鉄の線路が爆破されました。
爆破と同時に付近の関東軍鉄道守備隊は攻撃を受け、中国軍による破壊活動であると思われました。
関東軍は直ちに出動態勢を整え、奉天を急襲します。
奉天は張学良の指示もあり無抵抗を決めたので、関東軍は難なくこれを制圧。
市内全域を掌握しました。

鉄道線路が爆破されたことを知らされてからの行動としてはあまりに手際がよすぎる奉天制圧でしたが、それも道理であり、爆破自体が関東軍の自作自演によるものでした。
張作霖の爆殺に続いて関東軍はまたも謀略を使ったのです。

関東軍主力による都市攻撃という異常事態に政府は震撼し、事件の不拡大を内外に声明として発表しましたが、陸軍中央部は「武力行使は必要最小限にとどめること」とだけ訓令し、ほぼ関東軍の行動を黙認してしまいます。

関東軍は“自衛のための必要最小限の武力行使”により、9月21日には吉林を占領。
錦州への爆撃で錦州を拠点としていた張学良を威圧し、11月18日にはチチハルを占領。
軍事力によって満州に支配地域を広げて行きます。
年が明けた昭和7年(1932年)1月3日には錦州も占領。
2月5日、ハルビンを占領。
これで満州のほとんどは関東軍の制圧下に置かれました。

この間、日本政府はなすところ無く、国際連盟による中国からの撤兵勧告も拒否権を発動して無視します。
石原中佐ら関東軍上層部は、当初満州を日本の直接統治下に置こうと考えていましたが、さすがにそこまではと陸軍中央部が反対。
替わりに清朝の廃帝愛新覚羅溥儀(あいしんかぐら ふぎ)を首班とした親日政権を樹立させ、落ち着いたところで将来的に日本に併合するということにします。
溥儀は再び皇帝となれるならと、しぶしぶながらも日本の申し出を受け、満州に向かいました。

昭和7年(1932年)3月1日、満州国建国が宣言されます。
3月9日、溥儀は満州国執政の位置につき、満州国が動き始めました。
皇帝となるはずだった溥儀でしたが、まずは執政として国家元首となったのです。

満州国は、漢民族・満州民族・朝鮮民族・蒙古民族・日本民族を五族として、その一体融和を目指す五族協和と王道楽土を唱え、国旗も五族が一体であるという五色旗を掲げるという、建前としては(あくまで建前としては)立派な理念を持った国家でした。
しかし、実態は日本の傀儡国家であり、日本人と他の人種の方々とは明らかに差別されておりました。

9月15日、日満議定書が交わされ、日本は満州国を正式に国家として承認しました。
ここに、満州国建国までの一連の事件である「満州事変」は終了します。

日本はまた新たな問題を抱えることとなりました。

その5へ
  1. 2007/07/24(火) 21:03:30|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ 次のページ

カレンダー

11 | 2019/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

AquariumClock 2

プロフィール

舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

ブログバナー


バナー画像です。 リンク用にご使用くださってもOKです。

カテゴリー

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

管理人にメールなどを送りたい方はこちらからどうぞ

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

ランキング

ランキングです。 来たついでに押してみてくださいねー。

フリーエリア

SEO対策: SEO対策:洗脳 SEO対策:改造 SEO対策:歴史 SEO対策:軍事

フリーエリア