和議はなりました。
徳川家と豊臣家は敵対関係を解消したのです。
これによって豊臣家の危機は回避されたはずでした。
しかし、安堵したのもつかの間、和議成立の翌日すなわち慶長19年(1614年)12月23日から、大坂城は城としての意味を失い始めました。
和議の条件として家康から提示されたことの一つに、大坂城二の丸と三の丸を破却し、惣堀を埋め立てることとありました。
今までの慣習では、「お互いにもう平和になったのだから城を取り壊しましたよ。われらは裸になりましたよ」との儀礼的な意味合いで堀の一部を埋め立て、城の一部を取り壊すというのが一般的だったといいます。
つまり、いつでも元に戻すことができるものだったのでしょう。
大坂方も当然その慣習が頭にあったものと思われます。
取り決めでは、二の丸と三の丸の破却を大坂方が、惣堀埋め立てを徳川方が担当することになっていたといいます。
和議もなったことで一段落と感じていた大坂方は、ゆっくりと二の丸三の丸の取り壊し(それも一部分のみ)に取り掛かったものと思われます。
しかし、徳川方はそうではありませんでした。
なんと和議成立より早いうちから松平忠明、本多忠政らに普請奉行を命じ、突貫作業で埋め立てするように命じていたのです。
そのとき家康は三歳の子供でもたやすく登り降りできるように平らに埋め立ててしまえといったそうです。
各国の大名衆にはその石高に応じての人足の人数まで割り当てられ、膨大な数の人足が駆り集められていたのでした。
記録によれば雲霞のごとく集まった人足が昼夜兼行で作業に当たり、周囲の家々を取り壊してまで外堀を埋め立て、わずか数日のうちに大坂城の外堀は平らに埋められてしまったといいます。
城を攻める際に障害となるべき堀がまず失われました。
大坂方は愕然としました。
もとより和議の細目自体も口約束がたぶんにあったといわれ、実際に埋め立てや取り壊しなどが行なわれるのは更なる交渉があってからと考えていた節があるようでした。
そんな甘い考えを吹き飛ばすかのような外堀埋め立てに、大坂方はなすすべもなかったのです。
そして、さらに驚くべき事態が起こります。
外堀を埋め立ててしまった徳川方の人足が、今度は勝手に二の丸三の丸及び内堀の埋め立てに取り掛かってしまったのです。
あわてたのは大坂方でした。
二の丸三の丸は大坂方の担当ですし、内堀を埋めるなどとは条件になかったはずなのです。
大坂方の代表として大野治長と織田有楽斎が急ぎ徳川方の本多正純に面会を求めました。
しかし、本多正純は病気と称して会ってくれません。
なおも和議の条件に違うと詰め寄ったところ、こういう返事が返ってきたといいます。
「お手前方(大坂方)の作業が滞っているようだから、お手伝いをしたまでのこと。みな早く国許に帰りたがっているゆえ、一日でも早く作業が終わったほうがいいでしょう」
大野らはその返事に愕然としながらも、なおも内堀埋め立ては条件にないと詰め寄ります。
埋め立てるのは惣堀(外堀)のはずだと。
返ってきた返事はこうでした。
「惣堀ではなく総堀、つまりすべての堀である。聞き違えたのではないか?」
口約束であるがゆえのしくじりでした。
(ただし、内堀は最初から条件に入っていたといわれ、この件は俗説といわれます)
大坂方が再三の工事差し止めを徳川方に申し入れている間にも、人足たちは作業を続けておりました。
ついには二の丸三の丸、そして内堀までもが破壊され埋め立てられてしまいます。
城攻めの際の防御側の拠点となるべき二の丸三の丸を失い、最後の障害たる内堀までもが失われました。
威容を誇った大坂城は、わずか一ヶ月ほどの間に大きく変容いたしました。
家康が命じたように三歳の子供でもたやすく通れるほど平らになってしまった平地に、天守閣だけが回りに何もない中に立っているのです。
もはや大坂城に防御拠点としての能力は無くなりました。
工事終了の報告を聞いた家康は、おそらく満足の笑みを漏らしたことでしょう。
大坂方にとっては悔やんでも悔やみきれない結果となってしまいました。
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- 2008/08/07(木) 20:42:52|
- 豊家滅亡
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