1944年後半。
ドイツ上空の制空権はほぼ連合軍によって握られつつありました。
米第八空軍のB-17による連日の爆撃に加え、航続距離の長いP-51ムスタングが配備され始めたことにより爆撃隊に護衛機が随伴するようになったのです。
B-17を撃墜することを目的とするようになっていたドイツの防空戦闘機は、防御力の高いB-17を攻撃するために重武装となり、またB-17の反撃に耐えるために防御力を増していたため、運動性の低い機体となっておりました。
運動性の低い戦闘機では空戦は苦手になってしまいます。
ドイツの防空戦闘機は護衛のP-51に次々撃墜されていくようになりました。
迎撃機が迎撃できない状況となってしまったドイツでは、護衛戦闘機との空戦を有利に進められ、さらにはB-17の迎撃もできる戦闘機を模索します。
護衛戦闘機との空戦を有利に進めるには、速度面で有利なジェット戦闘機を量産することが一番いいと考えたドイツ軍は、ジェット戦闘機の一大量産計画を立ち上げました。
計画は手軽に安価に作れる単発小型のジェット戦闘機の量産という形で進められ、Me262というすでに生産されている既存の機体の量産を望んだ現場の人間の要望を無視する形でゲーリングとシュペーアによって強引に進められたといいます。
この安価軽量の単発ジェット戦闘機は「フォルクスイェーガー(直訳では国民狩人:転じて国民戦闘機)」計画と名付けられ、ハインケルの設計が採用されることになりました。
実はハインケルでは軽ジェット戦闘機の自主的開発が行われており、すでに大まかなテストまで済んでいたため、時間が惜しいドイツ空軍はこれに飛びついたのです。
出来上がった試作機は、不足してきた金属を節約するために大部分が木で作られた胴体の上にジェットエンジンを背負ったような形となり、その後方噴射を避けるような形で垂直尾翼は水平尾翼の両端に付けられるというものでした。
しかし、木製部分を接着する接着剤の不具合や、急いで設計したことによる問題点が続出し、その改善を泥縄的に行う羽目になってしまいます。
それでも戦争最後の年1945年2月にはどうにか完成の域に達し、ハインケルHe162と正式番号を与えられ前線部隊への配備が始められました。
「フォルクスイェーガー」の名が示すごとく、国民誰でもが生産でき(熟練工を必要としない)、国民誰もが操縦できる(操縦が非常に容易)戦闘機というものを目指したHe162でしたが、当然のごとく熟練工を要し、それ以上に安定性に難のある操縦しづらい機体となってしまったようです。
それでも速度は速く、運動性にも優れていたHe162は、ベテランパイロットに操縦されればかなり強力な戦闘機となったのは間違いなく、第一級の戦闘機と褒め称えるパイロットもいたといいます。
結局、戦争末期のドイツには、この戦闘機を有効に使うことはできなかったようで、約120機が工場から出荷されたものの、戦闘飛行したものはほとんど無かったようでした。
非公式に「ザラマンダー(火トカゲ)」と呼ばれたHe162は、未成熟のまま飛ぶことを余儀なくされ、ドイツ敗北とともに一生を終えたのです。
それではまた。
- 2008/07/08(火) 19:56:46|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
ドイツ軍のジェット戦闘機を見ると「震電」を思いだしてしまいます。
木製の有人ミサイルだった「桜花」は論外なんですけどね。
- 2008/07/14(月) 03:48:35 |
- URL |
- 神代☆焔 #-
- [ 編集]