1976年6月27日。
ギリシャのアテネ空港を一機の旅客機が飛び立ちました。
旅客機はエールフランス139便、機種はエアバスA300、所属はフランスのエールフランス航空でした。
この旅客機はギリシャのアテネに着く前はイスラエルのテルアビブを出発しており、アテネ経由でフランスのパリへ向かう予定の旅客機でした。
午後12時45分ごろ、アテネを飛び立って約20分ほどが経過したころでした。
突然悲鳴と、やや遅れてスピーカーから機内に声が流れました。
「この飛行機は、たった今PFLP(パレスチナ解放人民戦線)によって制圧された。乗客は各自の座席でおとなしくしていること」
ハイジャックの発生でした。
ハイジャック犯人は白人男女とアラブ人男性二人の合計四人だったといいます(異説あり)。
彼らは乗客から武器になりそうな物をすべて取り上げ、旅客機の行き先を変えさせました。
乗客にとって長い悪夢の始まりでした。
ハイジャックされたエールフランス139便は、地中海を渡ってアフリカの国リビアのベンガジに到着します。
ここで乗客の中の妊婦一人が降ろされますが、そのほかの乗客乗員合わせて256名はそのまま機内に取り残されました。
ハイジャック犯たちは機内各所に爆弾を仕掛けたのち、エールフランス139便を再び離陸させます。
さらにアフリカ内陸に向かって旅客機は飛び続け、着陸したのはアフリカ内陸の国ウガンダのエンテベと言う簡素な空港でした。
ウガンダは北をスーダン、南をタンザニア、東をケニア、西をザイールに囲まれるまさに内陸の国で、南側にある大きな湖ビクトリア湖のほとりにエンテベ空港はありました。
到着は日付も変わって6月28日の午前8時ごろのことでした。
テルアビブを出発した旅客機がハイジャックされたとの報告は、すぐにイスラエル政府の知るところとなりました。
アラブ過激派などによるハイジャック事件を何度も受けているイスラエル政府の対応はすばやく、旅客機がテルアビブに戻ってくるものと思った(過去のハイジャック事件ではそうした行動が行われた)イスラエル政府は特殊部隊をテルアビブ空港に待機させました。
しかし、エールフランス139便がなんとアフリカの奥地に向かってしまったということを知り、待機していた部隊は空振りに終わります。
イスラエル政府は対応に苦慮することになりました。
一方旅客機の所属国であるフランスにとってもこの事件は一大事でした。
事の重大さを認識していなかった秘書官によって情報が遅れたため、プエルトリコ訪問中の当時のジスカール・デスタン大統領が事件を知ったのは28日になってからでしたが、大統領はすぐにウガンダの駐在大使に情報収集とウガンダ政府に人質解放の努力を要請することを命じました。
28日の午後になって、ようやく乗客乗員は旅客機から降ろされました。
しかし、彼らはそのまま空港ターミナルビルに閉じ込められ、人質であることに変わりはありませんでした。
そして彼ら人質の前に、ある人物が姿を現します。
ウガンダ政府大統領、イディ・アミンでした。
かつてイスラエルとは友好関係にあったウガンダでしたが、アミン大統領のイスラエル製戦闘機が欲しいと言う申し出をイスラエルが拒絶、さらにウガンダの隣国タンザニアへの侵攻作戦に対しイスラエルが不支持を表明したことからアミンはイスラエルを敵視し始めます。
アミンはリビアのカダフィ大佐らと歩調を合わせ、反イスラエル闘争をするアラブ側を支援。
今回のハイジャック犯も受け入れて自分の影響力をアピールする狙いがあったといわれます。
フランス、イスラエル両政府のアミン大統領への交渉が続く中、ハイジャック犯からは翌6月29日に要求がウガンダ放送を通じて出されました。
要求は各国に捕らえられている仲間の釈放と言うもので、合計53人中イスラエルからは40人を釈放せよというものでした。
期限は7月1日の正午。
仲間の解放がなければ人質は全員射殺するというものでした。
期限を過ぎれば全員射殺を言い渡された人質たちでしたが、ハイジャック犯は彼らを二グループにわけ始めました。
イスラエル国民かユダヤ人とそれ以外の人たちです。
イスラエル国民かユダヤ人は空港ターミナルビルの狭い部屋に閉じ込められ、残りの人たちはそのままにされたのです。
イスラエル政府は要求に屈するか人質奪回のための軍事行動を行うべきか揺れに揺れました。
しかし、自国内ではなくウガンダと言う主権国家内であり、さらにエンテベ空港の様子がさっぱりわからないという事態に強硬論は鳴りを潜め始めます。
国防大臣も参謀総長も7月1日正午までと言う時間内に奪回作戦を行うのはほぼ不可能であると断言します。
イスラエルの当時の首相イツハク・ラビンの取りえる選択肢は要求に屈するしかないように思えました。
6月30日。
エンテベ空港ターミナルビルに監禁されていたエールフランス139便の人質のうち、イスラエル国民及びユダヤ人以外の人質が解放されます。
人質は翌7月1日にかけて二回に分けて解放され、乗客に対する責任感で残留を決めた機長ほかエールフランスの乗員10名と、イスラエル国民及びユダヤ人97人の計107人だけが残されたのです。
まさに事件はイスラエル政府対パレスチナ解放人民戦線PFLPとそれを支援するウガンダ政府との戦いとなりました。
イスラエル政府は何とか交渉によって人質を解放するべく努力し、アメリカやソ連(当時)などにも手を回してアミン大統領の説得に当たります。
しかし、アミン大統領からはいい返事はもらえず、時間だけが過ぎました。
イスラエル政府は万策つき、ついにハイジャック犯の要求に屈することを閣議決定する事にいたします。
そのときでした。
ハイジャック犯人たちから一方的に、交渉の期限を72時間延長し、7月4日の午前11時とするという声明が発表されたのです。
まさにイスラエル政府は九死に一生を得た思いでした。
この期限延長をハイジャック犯がなぜ行ったかについては定かではないそうです。
しかし、アフリカ統一機構の首脳会議が7月3日に予定されていたことから、アミン大統領がハイジャック犯への何らかの働きかけを行ったのではないかといわれています。
ともかく時間の猶予ができたことにイスラエル政府は息を吹き返しました。
ラビン首相は交渉継続と平行して、軍事的救出作戦の準備を急ぐよう命令を下します。
世に名高い「エンテベ空港奇襲救出作戦」はこうしてスタートを切りました。
明日へ
- 2008/05/31(土) 19:28:12|
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