USS「サスケハナ」
皆様ご存知の、マシュー・カルブレイズ・ペリー提督が浦賀にやってきた時の旗艦ですね。
正式には蒸気フリゲートという艦種に区分される「サスケハナ」は、1850年に完成した軍艦で、排水量三千トンにもなる外輪型の蒸気船でした。
ペリーの浦賀来航が1853年のことですから、まだまだできたばかりと言っていい軍艦です。
日本で大型の船といえば千石船ですが、千石船は排水量で言えば200トンほど。
まさに大人と子供以上の体格差があったわけです。
その大型の軍艦が、煙をモクモクと吐き出しながら、外輪をゴロゴロと回して帆をたたんだまま航行する姿は、まさに驚天動地の驚きを江戸の人々に与えたでしょう。
「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」
これはどうも明治時代の創作で、幕府を貶めるためのものらしいのですが、この歌は結構有名であり、浦賀に来たのが四隻の蒸気船と思っておられる方が多いと思います。
実際来航したのは確かに四隻でしたが、そのうち蒸気船と呼べるのはこの「サスケハナ」と「ミシシッピ」の二隻だけであり、「プリマス」と「サラトガ」の二隻は純粋な帆船だったんですね。
江戸湾に入ってきたときには、「サスケハナ」と「ミシシッピ」が他の帆船をロープで引っ張っていたんですね。
まだ、できて三年ほどの「サスケハナ」でしたが、外輪式の蒸気船というのは、すでに時代遅れとなりつつあったものでした。
事実同時期のクリミア戦争では、外輪船は外輪を破壊されて身動きが取れなくなるという弱点を晒しており、軍艦としては致命的だったんですね。
ペリーの率いていた四隻の艦隊は、当時としてはすでに二線級の艦隊だったんです。
ただ、やはり当時の江戸幕府にとっては脅威そのもの。
何しろ積んでいる大砲が強力でした。
外輪船であっても、風がなくても自由に航行でき、強力な大砲の破壊力を持ってすれば、江戸湾を封鎖し江戸幕府を脅威に陥れることなど簡単だったのです。
幕府はこの脅威には対抗できませんでした。
結局開国を決定せざるを得なかったのです。
対抗手段がなければ、二線級だろうが三線級だろうが同じということですね。
その後「サスケハナ」は日本を出発。
翌年再び日本へ来たあと太平洋を横断し、ホーン岬経由でフィラデルフィアに戻ったため、世界一周をした初の蒸気船となりました。
(日本へ来る時は大西洋岸から喜望峰を回ってインド洋経由)
その後1883年に解体処分となります。
四周を全て海で囲まれた日本は、海軍力が何よりも必要だと痛感したことでしょうね。
その後幕府は海軍力を整備し、「開陽」を旗艦とする旧幕府艦隊は新政府軍をまったく寄せ付けませんでした。
そして、日本は最終的に「大和」に行き着くこととなります。
それではまた。
- 2006/09/14(木) 22:29:33|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0