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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その26

太閤秀吉が亡くなり、それから十六年もの月日が流れておりました。
しかし、その間に領地を削られ、寺社修築などに多額の財力を消費してきた豊臣家であったにもかかわらず、大坂方はこの危機に際して大量の金銀を放出し、各地の牢人を呼び集めました。
その数は約十万人にものぼったといわれ、戦力としてはともかく数だけは徳川幕府軍に対抗することができるほどの数をそろえることができたのです。

この膨大な数の牢人衆を、大坂方は食わせなくてはなりません。
そのため大坂方は膨大な量の兵糧米の確保に奔走することになります。
このときに大坂方に渡った米の一部に、福島正則の約八万石といわれる大量の米がありました。

福島正則は大坂に蔵を持ち、そこには所領より徴収した米を備蓄しておりました。
この米を大坂方は接収したのです。
無論そこには、この豊臣家の危機に際して何もできない福島正則の思惑もあり、八万石もの米は無抵抗で大坂方に引き渡されたと伝えられます。

さらには徳川家自体が大坂の蔵に保管してあった三万石から五万石ほどの米を接収。
諸大名の蔵からも接収した上に町人衆からも買い上げて、大坂にある米という米は根こそぎ大坂城に運び込まれたといっても過言ではない状況となります。
その量、およそ十六万石ほどだったといわれ、篭城しても食料にはまったく困らないといってもいい状況を作り出しておりました。

また、牢人衆は数こそ多かったものの、槍も刀も生活のために手放してしまっていた者も多く、彼らを戦闘に使うためには武具を与えなければなりませんでした。
そのため、大坂では大量の武器や弾薬が買い集められ、牢人衆に手渡されるに足るだけの物がそろえられます。
これも大坂方の財力によるものであり、太閤秀吉の残した財力はそれこそ天文学的なものだったのがうかがい知れます。

兵、兵糧、武具、すべてにおいて大坂方は財力でそろえることができました。
そのそろえた兵力をどう使うのか。
今度は大坂方はそのことに頭を悩ますことになるのです。

残念なことに、淀殿や秀頼の期待した太閤恩顧の諸大名の応援というのはまったくありませんでした。
それどころか大坂方の使者を切り捨てたり、捕らえて幕府に差し出したりすることで徳川家への忠誠の証としようとするものも多く、昔日の豊臣家の勢威は完全に失われておりました。

大名家の参陣がない以上、武名に優れた牢人に注目が集まるのは当然でした。
大坂方は参集してきた牢人衆の中でも武名に優れた真田や毛利のほか、黒田長政との確執により出奔した後藤基次(ごとう もとつぐ:又兵衛とも)や宇喜多秀家の重臣だった明石全登らが中核となり、牢人衆を取りまとめて行くことになります。

慶長19年(1614年)10月。
大坂方は以後の徳川方との戦いにおいての基本方針を定めるべく、戦評定を開いたといわれます。
ただし、これは良質な一次資料には明記されたものがないらしく、行われたであろうというのが正しいようです。
この戦評定において、大坂方は早くも寄せ集めの弊害を露呈してしまったというのが通説であります。
豊臣家宿老の大野治長らが篭城を主張し、それに対して真田信繁(幸村)ら牢人衆が迎撃での城外決戦を主張。
物別れに終わるも結局篭城案になったというのです。

ただし、大野治長は城外での戦いを本人も主張したが、徳川方に内通していた小幡景憲(おばた かげのり:のちに甲陽軍鑑を記す軍学者)が、徳川方が不利になる城外決戦を避けるよう巧みに会議を誘導したために篭城策に決まったとも言われます。

実際現在の眼から見れば、城外決戦は望み薄であったといわれ、篭城策はとりえる策としては上策だったとされています。
実際大坂方としては、兵糧や武器弾薬の確保に奔走するので手一杯であり、京まで出向いて宇治・勢田を確保するのは困難だったといえるでしょう。
大坂方は、堅固な大坂城に頼るしかなかったのです。

一方徳川家康は、片桐且元が追放され、大坂方との一戦を避け得なくなったとき、大変に喜んだといわれます。
いっぺんに若返ったようだとか、病気が全快したなどといわれ、相当に気分が高揚したと思われます。
真田の入城は多少気がかりだったかもしれませんが、所詮は昌幸本人ではない子供の信繁(幸村)であることから、それほど気にもしなくなったでしょう。

慶長19年10月11日。
家康は意気揚々と駿府を出発します。
わずかな供回りだけを連れたまるで物見遊山のような出陣だったといわれ、あちこち寄り道しながらの大坂への道のりだったといわれます。
途中途中で軍勢が合流し、大坂に近づくにつれて兵力は増しました。
10月23日、京都二条城に到着。
翌々日の25日、家康は藤堂高虎と片桐且元を二条城に呼び出します。
築城の名手藤堂高虎と大坂城内を熟知する片桐且元。
家康はこの二人に大坂城包囲の先鋒を命じました。

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  1. 2008/04/29(火) 20:13:57|
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