天下普請と寺社修築によって着々と豊臣家の勢力を削ぎ続けてきた徳川家康は、朝鮮の使者を江戸にて接見したり、島津家の琉球侵略を黙認したり、さらには公卿の一人を家康の名において罰したりしたことで、満天下に現政権担当は徳川家であることをアピールしてきました。
にもかかわらず、豊臣家は大坂において家康と距離を保ち、異質な存在として徳川幕府に従うことを拒否しておりました。
前政権担当の太閤秀吉の遺児として、今も政権は一時的に家康(秀忠)に預けているという意識があったのだと思われます。
家康としてもいつまでもそのままにはして置けませんでした。
豊臣家が徳川家に従いさえすれば、豊臣家に公家の押さえを任せてもいいとさえ考えていたといわれます。
豊臣家が従ってさえくれれば・・・
家康は徳川家に屈しない豊臣家に苦い思いを抱いていたに違いないでしょう。
家康は、後水尾天皇即位にあわせて京都に上洛することになり、それを機に再び大坂方に豊臣秀頼を上洛させるよう要請します。
二条城にて会見をし、江戸と大坂のわだかまりをなくそうという触れ込みでした。
上洛すれば豊臣家が家康に屈したと知らしめることになるでしょうし、上洛しなければ大坂に対して戦を仕掛ける口実とするつもりがあったと思われます。
事実家康は京都に軍勢を引き連れていったといわれ、大坂市中では戦になるかもしれないとの風聞が飛び交いました。
とはいえ、家康はあくまでも秀頼に対し懐柔するつもりであったのかもしれません。
秀頼が上洛しやすいように名目を設けているのです。
輿入れした千姫が大坂でどうしているかを知りたい。
婿殿が直接教えてはくれないだろうかというもので、あくまで徳川家と豊臣家ではなく舅と婿の顔見世であると取り繕ったのです。
しかし、家康の要請は淀殿が拒絶します。
家康の元へ出向けば秀頼は殺されると信じて疑っていない淀殿は、秀頼を行かせる事などできなかったのです。
しかし、これまでさんざん家康の要請を拒絶してきた大坂方にとって、婿に会いたいという家康の申し出さえ拒絶しては戦になるという懸念は大きなものがありました。
そこで補佐役の片桐且元始め、加藤清正や福島正則、浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名たちがそろって淀殿を説得。
秀頼自身が二条城へ赴くことを了承したことや、どんなことがあっても秀頼を守ると豪語した加藤清正の約束などもあり、ついに淀殿も秀頼と家康との二条城での会見を受け入れざるを得ませんでした。
慶長16年(1611年)3月28日。
京都二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の歴史的会見が行われました。
このときにあたり、加藤清正は淀殿への約束どおりに懐に短刀を忍ばせて終始秀頼から離れずに護衛し、福島正則は病と偽って大坂城に残り、手勢約一万を持っていつでも京都へ駆けつける体勢を整えていたといいます。
会見そのものは終始和やかに行われたといいます。
家康は下座に着いた秀頼を手招きし、ともに上座に座ろうと言うも、秀頼はそれを固辞して下座で家康に対面したといわれます。
双方からの進物が送られ、徳川方も豊臣方も会見が無事に終わったことを安堵いたしました。
この対面において、豊臣秀頼は家康に相当深い印象を与えたといわれます。
19歳の秀頼は当時としては栄養状態もよくきわめて偉丈夫だったといわれ、身長も記録によれば197センチに達するといわれました。
その若々しい美丈夫ぶりに驚いた徳川の老臣本多正信は、酒色におぼれさせて政務から遠ざけるよう進言したとされ、また、禅僧の学問僧からも成熟した風格を備えた立派な人物と評されるなど、大坂方の頂点に立つ人物としてふさわしい人物だったといわれます。
70歳に達した家康はこの会見によって秀頼排除の意思を固めたといわれます。
事実はどうだったかわかりませんが、確かに老いた自分亡き後の徳川家にとっては秀頼の存在が不気味に思えたことは確かだったかもしれません。
若々しく前途ある秀頼を、家康は相当に評価したと言われ、牛に驚く暗愚の人とか、うどの大木などという周囲の評に耳を貸しませんでした。
家康は秀頼を恐るべき相手として認識したのです。
もはや徳川家と豊臣家の共存はなくなりました。
会見がかえって家康に秀頼恐るべしと印象付けてしまったのです。
会見を無事に終え、大坂へ帰国する秀頼を護衛していた加藤清正はホッと胸をなでおろしておりました。
彼はこうつぶやいたといわれます。
「これで太閤殿下より受けたご恩は半ば返したも同然である」
豊臣家の柱として幾多の戦場を駆け巡った加藤清正がこの世を去ったのは、この会見から三ヶ月後のことでした。
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- 2008/03/26(水) 20:39:28|
- 豊家滅亡
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