慶長12年(1607年)3月。
徳川家康は天下普請により修築なった駿府城にその身を移します。
建設中の名古屋城とこの駿府城で、いったん大坂とことあるときには大坂方の軍勢を食い止めるつもりだったといわれます。
この家康の駿府移転に伴い、移転祝賀の勅使が朝廷より送られました。
また、駿府城修築祝いにも祝賀の勅使が送られます。
つまり朝廷は家康の駿府移転により、権力の中枢が駿府に移ったと見ていたといえるでしょう。
翌年には「天下の主」を飾り立て威厳を与える「猿楽衆」も駿府に移り、まさに政治の中心は豊臣家のある大坂でも将軍徳川秀忠のいる江戸でもなく、この駿府であると知らしめたのです。
そして、天下普請で豊臣恩顧の諸大名の経済力を低下させた家康は、次に豊臣家本体の経済力を低下させるべく策を弄します。
豊臣家による太閤秀吉ゆかりの寺社の造営及び修築です。
太閤豊臣秀吉は、経済観念の発達していた人でした。
経済力が軍事力を高めることを理解しており、各種貿易などによって巨万の富を大坂城に蓄えていたといわれます。
この財力をそぎ落とさねば、豊臣家を屈服させることは困難です。
そのため、家康は太閤秀吉の供養にもなるとして、豊臣秀頼に秀吉ゆかりの寺社を造営修築するように“提案”しました。
太閤秀吉の恩顧を家康が忘れていないための提案と思われたのか、秀頼及び淀殿はこれを受け入れ、慶長7年より各所の寺社を修築していきます。
その数たるや慶長7年の京都の東寺金堂に始まり慶長13年の山城鞍馬寺毘沙門堂まで66件にも及びます。
それぞれにかなりの費用がかかったと思われ、家康の思惑通りに大坂城の資金は大幅に減ったといわれます。
そしてこの後も造営修築は相次ぎ、慶長19年の大坂冬の陣までには合計85件にのぼったのです。
慶長15年(1610年)6月12日。
「関ヶ原の戦い」から10年が経過したこの年、京都東山方広寺(ほうこうじ)において、大仏殿再建のための地鎮祭が行われました。
家康の勧めにより、焼失していた大仏殿を再建することになったのです。
京都東山方広寺に大仏と大仏殿を建築するという事業は、天正14年(1586年)に秀吉が始めたものでした。
ところが慶長元年(1596年)の大地震で大仏が倒壊。
慶長7年(1602年)に再建を開始するも、火災によって再建中の大仏はおろか大仏殿まで焼失してしまったため、この機に再び再建しようということになったのでした。
大仏殿の建設には多額の資金が必要とされ、またしても大坂城に蓄財された大量の金銀が費消されたといわれます。
このため世間では太閤の遺産は尽きたと見る者が多かったといわれます。
また、大仏殿再建にかかった費用は、回りまわって家康の手に入るようになっていたとも言われ、実際はともかく大坂方の財力を消費させるという家康の目論見はある程度達成されたのは間違いないでしょう。
そして、この方広寺大仏殿修築こそが、豊臣家にとって運命の事件を引き起こすことになるのです。
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- 2008/03/18(火) 20:30:35|
- 豊家滅亡
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