岡田首相(実際は松尾秘書官)、高橋蔵相、斉藤内大臣、渡辺陸軍教育総監の計四人を殺害し、警視庁などの主要部を占拠した決起部隊は、この事実を同じく占拠した陸相官邸の陸軍大臣川島義之に報告。
おっとり刀で駆けつけた青年将校の敬愛する真崎陸軍大将もこの報告を聞いて、よくやったと褒めたといわれます。
青年将校たちの計画は実はここまでしか無かったといわれます。
彼らは「君側の奸」を取り除けば、後は天皇陛下が自然と日本をよい方向に導いてくださると思っていた節があり、兵力を持って次期政権を無理やり打ちたて、それによって日本を変えていくということまでは考えていなかったようでした。
あとはお任せいたしますといわんばかりに報告を受けた形となった陸軍大臣川島は、とりあえず決起部隊を刺激せぬためにも善後策を協議することにし、軍事参議官たちを参集します。
そして決起部隊をなだめるための懐柔策として陸軍大臣告知を発表。
彼らの行動は天皇陛下に伝わったと見せかけました。
この告知は青年将校たちを喜ばせます。
青年将校たちの理想としては、この決起の主意が天皇陛下に伝わり、よくやったとねぎらわれるとともに陸相主導で皇道派メンバーを中心とした新内閣が結成され日本をよい方向に導いていくというものでした。
しかし、この望みは叶わぬものでした。
一報を伝え聞いた木戸幸一内大臣秘書官長および湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長らが直ぐに昭和天皇のいる宮城に入り、協議を行ってこの青年将校の行為を反乱として鎮圧することを決し、その旨を昭和天皇に伝えたのです。
昭和天皇は青年将校たちの行動に激怒したといわれます。
昭和天皇自らが任命した政府閣僚を、天皇の指揮下にある陸軍兵士を私的に利用して殺害したのですから、激怒するのも当然といえるかもしれません。
昭和天皇は内大臣秘書官長らの献策もあり、断固反乱鎮圧することを命じました。
翌2月27日には東京に戒厳令がしかれます。
海軍も東京湾に戦艦を入れ、主砲を市内に向けました。
甲府や宇都宮からは鎮圧のための部隊が東京に向かい、決起部隊は反乱軍とされました。
「君側の奸」を排除することのみを目的としていたといっていい青年将校たち決起部隊は、あまりにも行動が杜撰だったといえます。
報道管制も海軍に対する根回しもなかった彼らは、東京内で孤立します。
28日には香椎浩平戒厳司令官に、反乱部隊を原隊(もともとの所属部隊)に帰還させ、速やかに市内の状況を改善するように昭和天皇より勅命が下ります。
昭和天皇は自らが近衛師団を率いて鎮圧に当たるとまで言われたといいます。
ことここにいたっては、何とか穏便に済まそうと思っていた陸軍も反乱鎮圧の方向で固まります。
29日午前5時10分、討伐命令が下されます。
「軍旗に手向かうな」というアドバルーンやビラがまかれ、NHKは「勅命が下ったのである」で始まる中村茂アナウンサーの放送を流して、兵士に帰順を促しました。
兵士たちの動揺と、反乱軍としての烙印を押されてしまったこと、天皇陛下自らが鎮圧なされようとしていることなどから、青年将校たちは今回の決起が陛下の意に沿わなかったものであったと認めざるを得ませんでした。
29日午後2時ごろ、青年将校たちは兵を原隊に復帰させ降伏。
その際に野中大尉は拳銃で自決。
安藤大尉も自決を図りましたが一命を取り留めました。
四日間にわたった2・26事件はこうして終結します。
参加人員約1400名ほどの反乱事件でした。
昭和11年(1936年)7月5日。
事件から半年たたぬうちに決起部隊中心将校の軍法会議(軍の裁判)の判決が下ります。
この軍法会議は決起将校に対する弁護人無し、控訴上告無しの一審制でさらに非公開というものでした。
判決は17名が死刑。
一命を取り留めた安藤大尉も銃殺に処されました。
上官の命令に従って出動しただけの下士官兵がほとんどでしたが、この事件に決起部隊として参加してしまった兵たちは、やはりこの後の中国戦線や太平洋戦線の最前線に送られる者が多かったらしく、多くの方が戦死されたといいます。
この事件をきっかけに陸軍皇道派は力を失い、統制派が陸軍の中心となっていきました。
そして、徐々に日本は太平洋戦争への道を歩んで行くことになるのです。
それではまた。
- 2008/02/27(水) 21:19:32|
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