慶長8年(1603年)2月12日。
京都の伏見城に朝廷の使者が到着します。
天皇の勅使は勧修寺光豊(かしゅうじ みつとよ)。
勅使一行は最高の礼装である束帯を身にまとい、威儀を正して入城します。
勅使一行との対面のために、家康が対面所の伏見城南殿に入ったのはちょうど正午ごろと言われ、それから伝統と格式に乗っ取った儀式が行われました。
徳川家康に対し、天皇より征夷大将軍に任ずる旨がここに下されたのでした。
室町足利幕府最後の将軍となった足利義昭の任命以来30数年ぶりの将軍宣下であり、日本史上三番目の幕府がここに開闢することになったのです。
徳川家康はこの将軍職というものにこだわりました。
大坂の豊臣秀頼に対し上位に立つ必要があったからであり、同じ上位であっても、関白では朝廷の代理人でしかない上に秀頼より先に関白になったのでは諸大名の顰蹙を買う恐れもあったからです。
家康は清和源氏ではなかったと言われ、征夷大将軍の位に付くことがそのままではできませんでした。
そこで家康は、源氏新田家の子孫が“得川”と名乗ったことに眼をつけ、無理やりこじつけて得川が徳川となったと家系を捏造し源氏であると言い張ったのです。
こうして征夷大将軍となった家康は、征夷大将軍の慣例である武家の棟梁の地位も手に入れることができ、念願の幕府を開くことができました。
徳川家康が征夷大将軍になり幕府を開いたということは、とりもなおさず大坂の豊臣家とは違う政治機構が動き始めたということであり、豊臣家にとっては政権の根底を揺るがす大事件のはずでした。
しかし、大坂の豊臣家は静観の構えを崩しませんでした。
またしても、何が起こっているのか、何が起こりつつあるのかがわからなかったのかもしれません。
慶長8年3月21日。
徳川家康は、新たな京都支配の拠点である二条城に入城します。
豊臣政権の拠点である伏見城ではなく、徳川幕府の朝廷工作および支配のための拠点である二条城に入城したことで、家康ははっきりと豊臣政府からの離脱を表明したといっていいでしょう。
しかし、家康はまだ豊臣家との完全なる敵対にまではいたりません。
同年7月28日。
徳川秀忠の娘であり家康にとっては孫娘である千(せん)姫が大坂城に入城し、豊臣秀頼と結ばれます。
太閤秀吉の遺言による結婚が実を結んだのでした。
千姫の母お江与(えよ)の方(お江(ごう)とも呼ばれることあり)は近江の大名浅井長政(あざい ながまさ)と織田信長の妹お市(いち)の方との間に生まれた三人の娘の三女であり、豊臣秀頼を生んだ淀(よど)君は同じく三人の娘の長女であるため、秀頼と千姫はいとこ同士という間柄でした。
この二人を夫婦にすることで、豊臣家と徳川家の結びつきをより強固にし、もって秀頼の将来の安泰を計るつもりだったのが太閤秀吉だったのです。
豊臣家はその秀吉の約束を守った家康に対し、警戒心を薄めてしまったのでした。
さらに家康は豊臣家への懐柔工作を進めました。
翌慶長9年(1604年)8月12日。
京都東山にある秀吉を祭った豊国社で、秀吉の七回忌の臨時祭が盛大に行われます。
この七回忌臨時祭を家康は秀頼とともに主催したのです。
京都の町は華やかさに包まれ、太閤秀吉の人気の高さをうかがわせました。
人々は豊国大明神を熱狂的に祭ったのです。
この祭りに対し、家康が秀頼とともに主催したということは、大坂方にとっては家康はいまだ秀吉に対して恩と畏怖を忘れていないと見えました。
大坂方はまんまと家康の懐柔策に乗せられてしまったのでした。
このとき豊臣秀頼は十一歳。
淀君をはじめとする大坂方は、家康の幕府も秀頼の成人までの間のことと信じて疑わなかったのです。
その幻想が打ち砕かれるのは、わずか一年後でした。
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- 2008/02/23(土) 20:05:59|
- 豊家滅亡
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