皆さんは「ピュロスの勝利」という言葉をご存知でしょうか?
おそらく知らない方が大半だと思います。
かく言う私もまったく知りませんでした。
「ピュロスの勝利」とは、まったく割に合わない勝利のことをさす言葉なのだそうです。
紀元前285年。
イタリア半島で着々と実力をつけ版図を広げつつあった共和制ローマは、イタリア半島の南端、ブーツの土踏まずの辺りに位置する都市国家タレントゥムを支配下に置くべく戦争を仕掛けました。
タレントゥムはギリシアのスパルタ人の建てた都市国家であり、優勢な共和制ローマとの戦いで窮地に陥ったタレントゥムは、ギリシア本土に救援を求めます。
この救援の呼びかけに応えたのが、現在のギリシアとアルバニアの国境付近にあった強国エペイロスでした。
エペイロスは、軍事的才能の誉れ高いピュロス王に統治された軍事強国であり、かのアレクサンドロス大王にも匹敵すると噂されるほどピュロス王の才能は評価されていたそうです。
ピュロス王は紀元前280年、約二万五千の兵と二十頭の象を持ってタレントゥムに到着。
直ちにローマ軍との戦闘に参加しました。
ピュロス王はその実力を発揮し、ローマ軍はヘラクレイアの戦いで惨敗。
一時後退を余儀なくされます。
しかし、ピュロス王の率いるエペイロス軍も結構な損害を受け、エペイロス本国から兵を補充しなくてはなりませんでした。
翌紀元前279年、ローマは再びタレントゥムを攻撃。
今回もピュロス王のエペイロス軍は活躍し、ローマは指揮官たる執政官を含む約六千もの兵を失う大敗北を喫します。
しかし、またしてもエペイロス軍はピュロス王自身が怪我を負った上、約三千以上もの兵を失いました。
兵力の損耗と軍事費による経済的圧迫などがエペイロスに重くのしかかり、それを嘆いたピュロス王はこう言ったといいます。
「もう一度ローマに勝利したら、われわれは壊滅してしまうだろう」
このことから、勝ったとしても採算が取れない勝利のことを「ピュロスの勝利」と呼ぶようになったのです。
二度の敗戦にもローマは和睦に応じませんでした。
結局ピュロスは対ローマ戦に嫌気がさし、カルタゴの圧迫を受けていたシキリア(シシリア)諸都市よりの救援要請を渡りに船とばかりに引き受けます。
ピュロス王の支援を失ったタレントゥムが陥落して、イタリア半島南部がローマの支配下に入ったのは、紀元前270年のことでした。
言葉の語源というのも面白いですね。
それではまた。
- 2008/02/11(月) 20:51:33|
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