昭和17年(1942年)8月7日。
中部太平洋ソロモン諸島の島のひとつ、ガダルカナル島にアメリカ軍の海兵隊を中心とした部隊が上陸を開始しました。
6月のミッドウェー海戦によって空母を一気に四隻も喪失した日本海軍は、1943年以降と判断される米軍の反撃に対抗するため、このガダルカナル島に滑走路を新設して、航空機部隊を展開させようとしていた矢先のことでした。
7月にやってきた設営隊と守備隊合わせても三千名足らずの日本軍(そのうち戦闘要員は約六百名ほど)が、ようやくジャングルを切り開いて作り上げた滑走路がほぼ完成間近のときでした。
そこに一万名以上の米軍が上陸し、瞬く間にガダルカナル島の日本軍は飛行場を奪われてしまいます。
この飛行場はヘンダーソン飛行場と名付けられ、ガダルカナル島の米軍にとって貴重な上空支援をもたらすことになりました。
日本軍は一木支隊や川口支隊などを逐次投入し、そのつど撃破されるという悪循環に陥ります。
さらに航続距離の関係からラバウルの日本軍航空隊もガダルカナル島の制空権を奪い取れません。
ガダルカナル島に陸軍部隊を送り込むにも、その補給物資を届けるのにも、制空権がなくては不可能でした。
そこで日本海軍は、飛行場を一時的にも使えなくするべく、戦艦の巨大な主砲で陸上の飛行場を砲撃しようという計画を立てました。
陸軍部隊でも航空機でもだめなら、海上からの砲撃で破壊しようというのです。
山本五十六長官は大乗り気で、戦艦大和で自分が陣頭に立つとまで言いましたが、もろもろの条件を考慮した結果、米軍機の飛ばない夜間に砲撃をして帰ってくるには高速戦艦じゃないと難しいということで、日本海軍きっての高速戦艦金剛級を使用することにしたのでした。
金剛級戦艦「金剛」及び「榛名」の二隻でヘンダーソン飛行場を砲撃し、飛行場が使用不能になった隙を突いて陸軍の第二師団をガダルカナルに上陸させるのです。
うまくいけばガダルカナル島の奪回が可能となるだろうと思われました。
昭和17年(1942年)10月13日。
栗田健男中将(昨日の記事に出てきた人です)率いる砲撃艦隊はガダルカナル島沖に侵入。
23時31分、水上機が照明弾を投下したのを合図に、金剛と榛名はいっせいに砲撃を開始。
35.6センチ砲から撃ち出される陸上砲撃用の三式弾や零式弾、対艦攻撃用の一式徹甲弾は、次々とヘンダーソン飛行場に炸裂していきました。
米軍も陸上の大砲で応戦しましたが、とても沖合いの戦艦までは届かず、かえって金剛榛名の副砲で攻撃される始末。
ヘンダーソン飛行場周囲の居住ブロックや防御陣地にいた米軍兵士たちは、降り注ぐ戦艦の砲弾になすすべなく祈るしかありませんでした。
砲撃艦隊は往復二回の砲撃をヘンダーソン飛行場に行い、金剛は三式弾百四発、一式撤甲弾三百三十一発を、榛名は零式弾百八十九発、一式撤甲弾二百九十四発をそれぞれ叩き込みました。
ヘンダーソン飛行場は猛火に包まれ、その様子を見ていた陸軍部隊から「野砲一千門に匹敵する」と大いに喜んだ電文が送られました。
結局ヘンダーソン飛行場は砲撃により使用不能。
備蓄した燃料もほぼ消失。
待機していたB-17は八機中二機が、戦闘機や攻撃機などの小型機は九十機中四十八機が破壊され、ガダルカナル島の米軍航空部隊は半身不随となったのです。
また、砲撃のあまりの恐怖にショック症状を起こした米軍兵士も数多く、これ以後米軍は戦艦による陸上砲撃の有効性を身をもって知ることになりました。
砲撃そのものは大成功ともいえるものでしたが、残念なことに、米軍はすでにヘンダーソン飛行場に第二滑走路を完成させており、そのことを知らなかった日本艦隊は第二滑走路を砲撃目標とはしておりませんでした。
そのため第二師団の上陸時には、飛んでこられないはずの米軍機が上空を飛び回り、日本軍の上陸部隊が大きな損害を受けることになってしまいます。
また、再び戦艦による飛行場砲撃という柳の下の二匹目のドジョウを狙った第三次ソロモン海戦では、待ち構えていた米軍水上艦隊によって、比叡と霧島の二隻の戦艦を日本は失うことになるのでした。
それではまた。
- 2008/02/06(水) 19:21:39|
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