FC2ブログ

舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その16

精強島津隊の世に名高い前方撤退によって、関ヶ原での「関ヶ原の戦い」は終わりを告げました。

慶長5年(1600年)9月17日には、戦場より逃亡した石田三成の居城佐和山城が東軍の攻撃により陥落。
これは東軍に寝返った小早川秀秋が中心となって行われ、東軍一万五千に対して佐和山城守備隊は二千八百ほどしかなく、城を預かっていた石田三成の父石田正継(いしだ まさつぐ)をはじめ、三成の妻や兄も討ち死にしたといわれます。

9月19日、西軍の武将の一人小西行長が東軍方竹中重門(たけなか しげかど)に捕らえられます。

9月21日、今度は西軍の事実上の総大将石田三成が田中吉政によって捕縛。
関ヶ原での西軍方の敗走と三成の捕縛を知った西軍の名目上の総大将毛利輝元は、急ぎ家康に対して交渉を行い、大坂城を明け渡すことにします。

9月23日、西軍方武将安国寺恵瓊が捕縛され、同日、毛利輝元は大坂城を退去。
吉川広家の策略により関ヶ原では何もできなかった毛利秀元が、大坂に戻ってきた折に毛利輝元に大坂での篭城戦を進言したといいますが、輝元はこれを拒絶。
家康との交渉により本領安堵が約束されたと信じた輝元は、家康に抵抗するつもりなどなかったのです。

9月27日、家康は再び大坂城に入城します。
これ以後、関ヶ原の戦いにおける戦後処理は、徳川家康が一手に握ることになりました。

9月29日、東北方面で伊達、最上、上杉が戦いを続けている中に関ヶ原の戦いの詳報が入ります。
上杉景勝はもはや戦う意味はないとして直江兼続に撤退を命令。
10月1日に始まった撤退戦は、兼続自身がしんがりとなった見事な采配により、上杉軍は伊達最上連合の追撃を切り抜けて10月4日には米沢に帰還しました。
この撤退戦は「長谷堂口の撤退戦」といわれ、のちにこの戦いの様子を聞いた家康が兼続を賞賛したと伝えられます。

10月1日、京大坂を引き回した上で京都六条河原において石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人が斬首されました。
このとき、石田三成がのどの渇きを訴えて水を所望したところ、水の代わりに柿を差し出され、柿は躰によくないからと断ったというエピソードが残っています。
これから死ぬのに躰のことなどどうでもいいではないかと笑う人々に対し、大事をなす者は最後まであきらめないものだと答えたといいます。

10月2日、家康との間に密約を結び、毛利秀元率いる毛利本隊を釘付けにした功績により、毛利家家臣吉川広家に二ヶ国の所領を与える旨が伝えられます。
しかし、吉川広家は喜ぶことはできませんでした。
続いて伝えられたのは、毛利家取り潰しの厳しい処分だったからです。

吉川広家は愕然としました。
彼は自分の所領欲しさに家康に接近したわけではありません。
何事も毛利本家のため、毛利本家をつぶさないために家康に接近したのです。
また、毛利輝元も本領は安堵されるであろうという起請文を黒田長政や福島正則らよりもらっておりました。
そのために安心して大坂城を出たのです。
しかし、家康のほうが一枚上手でした。
起請文は黒田や福島が出したものであり、家康自体は本領安堵など約束していないのです。
また、吉川広家にも充分すぎるほどの恩賞として二ヶ国を与えるといっているのです。
その上で、家康は西軍総大将として大坂城に入った毛利輝元は罪が重いとしたのでした。

必死に嘆願する吉川広家でしたが、処分が覆るはずもなく、万策尽きた広家は与えられた所領を返上する代わりに、毛利本家の存続を願い出ます。
これ以上の過酷な処断をして、毛利家に窮鼠猫を噛むがごとき反旗を翻されてもかなわないと見た家康はこれを了承。
10月10日に周防、長門(双方合わせて現在の山口県)の二ヶ国計三十六万石あまりを毛利家の所領とする旨を伝えます。
百二十万石以上の大大名だった毛利家は、約四分の一にまで削られてしまったのでした。

毛利輝元はこれを受けて家督を毛利秀就(もうり ひでなり)に譲り出家。
吉川広家ともども家康にしてやられたという思いが残ったのではないでしょうか。
その思いが、幕末まで根強く残り、倒幕の原動力となったとも言われますが、はたしてどうだったのでしょう。

石田三成ら三人を斬首し、毛利氏の処分が早々に行われたのち、10月15日に大坂で家康によって東軍参陣武将への論功行賞が発表されました。
本来であれば、この論功行賞こそ家康ではなく豊臣秀頼が行わなくてはならないものでした。

関ヶ原の戦いは、豊臣秀頼の名において豊臣政権にたてつく上杉討伐から始まっているのです。
そして石田三成も毛利輝元も秀頼の名において家康討つべしと兵を挙げたのです。
である以上は、豊臣秀頼がこの関ヶ原の戦いの論功行賞を行い、臣下にけじめをつけなくてはならないのです。
それをしない豊臣家は、関ヶ原の戦いを武士同士の喧嘩としてしか見ようとはしませんでした。
関ヶ原の戦いが何であったかわかっていない。
これが、豊臣家の大きな錯誤でした。

その17へ
  1. 2008/01/31(木) 20:33:30|
  2. 豊家滅亡
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<今日からキャンプ | ホーム | 歌詞が歌えない国歌>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://masatomaikata.blog55.fc2.com/tb.php/756-1bb2e112
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

カレンダー

08 | 2019/09 | 10
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

AquariumClock 2

プロフィール

舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

ブログバナー


バナー画像です。 リンク用にご使用くださってもOKです。

カテゴリー

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

管理人にメールなどを送りたい方はこちらからどうぞ

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

ランキング

ランキングです。 来たついでに押してみてくださいねー。

フリーエリア

SEO対策: SEO対策:洗脳 SEO対策:改造 SEO対策:歴史 SEO対策:軍事

フリーエリア