新年新作SS「女神の涙」の後編です。
お楽しみいただけますと嬉しいです。
それではどうぞ。
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玄関のドアが開き、あたふたとヴァレフィアが入ってくる。
そして主人の帰宅を出迎えようと玄関に行こうとしていたミズラフィアに、急いで客用のベッドを用意するようにと言いつける。
なにがなんだかよくわからないうちに、玄関からはメイド服姿の若い女性を抱きかかえたコルチャスキーが入ってくる。
「お、お帰りなさ……」
「ミズラフィア! 早く!」
「は、はい!」
慌ててミズラフィアもあたふたとベッドを用意するために、客用の部屋に向かう羽目になるのであった。
最初、ペトレンコ医師は渋い顔をしていたものの、話している相手がホリド宮の陸軍参謀本部勤めの少佐であり、コルチャスキー家というそれなりの家格の持ち主であることを知ると、すぐに診察を行なってくれた。
もちろん後でそれなりの診察代を吹っ掛けられることになるのだろうが、まあ、仕方あるまい。
寒空に若い女性を倒れたままにしておくのは、コルチャスキーの心情的に耐えられるものではなかったからだ。
それが一般の平民だ貴族だにかかわらずだ。
医師の診察の結果は、極端な衰弱というものであろうということだった。
なのでとりあえずは三日ほど静養をさせて様子を見るのが良いということであり、コルチャスキーはやむを得ず自分の家に連れてきて、メイドの女性を静養させることにしたのだった。
ミズラフィアの用意した客用ベッドに横たわり、眠り続けている女性。
まだ若く美しいが、顔色は青ざめている。
だが、とりあえずは容体も落ち着き、差し迫った命の危険はなさそうだ。
とはいえ、あのまま道に放り出されていたのでは、おそらく凍死していたであろう。
その意味では死なせずに済んでよかったというところか。
昏々と眠る彼女の様子を見ていてもらうためにミズラフィアを客間に残し、コルチャスキーはやれやれとばかりに居間へと戻る。
「お疲れ様でした、旦那様」
メイドとしての口調でコルチャスキーにお茶を持ってくるヴァレフィア。
こういうところは本当にありがたいとコルチャスキーは思う。
「すまないな、ありがとう」
お茶を飲んで一息つく。
さて……彼女が目を覚ましたら事情を尋ねてみなくてはなるまいな……
あの衰弱はただの衰弱ではあるまい……
「あのメイドの衰弱が気になるのか?」
ヴァレフィアはちゃっかり自分の分のお茶も淹れて、椅子に座り飲んでいる。
スカートの下で組んだ足がなかなかに美しい。
「そうだな。ただの過労という感じではなさそうなのでな」
「だろうな……」
ふふんという感じで笑みを浮かべ、カップを口に持っていくヴァレフィア。
「“女神の涙”から抜け出した魔物がいる。そしてこの家には衰弱したメイドが一人担ぎ込まれた。これを偶然と思うか、マージェコフ?」
「どうだかな……」
ヴァレフィアの言うとおりだ。
これははたして偶然だろうか……
やがて遅めの昼食を済ませて少しゆったりとした時間を過ごしていたところに、ミズラフィアが女性が目を覚ましたという知らせを持ってくる。
すぐにコルチャスキーは彼女のところへ行き、様子を確認してから事情を話せるかどうか聞いてみた。
「は、はい……」
目を覚ましたら自分が見知らぬ上級家庭の一室にいたということに驚きを隠せない彼女ではあったが、これまでの現状はミズラフィアがすでに話していたらしく、彼女はコルチャスキーに自分のことを話し始めた。
彼女の名はリーシア・マリエスカヤと言い、ルトフスキー家でメイドをしている者だという。
特に持病もなく健康であったが、ここ数日急に躰が重く感じるようになり疲労が抜けなくなったらしい。
実は、ルトフスキー家ではひと月前にもメイドが一人急激に衰弱して死んでいるそうで、もしかしたら何か関係があるのでしょうかと彼女は少し不安そうな顔を見せていた。
コルチャスキーは大まかな事情を聞くと、リーシアにルトフスキー家にはこちらから伝えるので、まずは躰の調子が戻るまでゆっくりしていくようにと告げ、ミズラフィアに彼女の面倒を任せて部屋を出る。
そしてヴァレフィアに外出の用意をするように命じると、自分もコートなどを用意した。
「もうすぐ夕暮れだぞ? 今からルトフスキー家に行くのか?」
通りに出て拾った辻馬車に乗り、ルトフスキー家へと向かうコルチャスキーとヴァレフィア。
「ああ……お使いに出たままメイドが帰ってこないとなれば、屋敷の者たちが心配しているだろうからな……と、言うのは表向きだが」
「一ヶ月の間に二人のメイドが衰弱死するところだったとなれば、何かあるかもしれない……か?」
「そういうことだ」
ヴァレフィアの言葉にうなずくコルチャスキー。
「ふん……酔狂なことだ。一デリムにもならぬことを……物好きな」
ため息をついて首をゆっくりと振るヴァレフィア。
コルチャスキーほどの腕の持ち主が何をやっているのやらという感じだ。
「まあ……俺もそう思う。だがな、“女神の涙”の件、気になってしまったのでなぁ……」
「ふん……まあ、われはチョコレートをもらえるのであれば助力は惜しまぬ。あてにしてもよいのだぞ」
やれやれ……
さっきはあてにしていると足をすくわれるだのなんだのと言っていただろうに……
「ああ、あてにしているさ」
そう言ってヴァレフィアの頭をなでるコルチャスキー。
「なっ! だからわれは子供ではないというのに!」
そう言いながらもコルチャスキーの手を払いよけたりはしないヴァレフィア。
その顔はまんざらでもなさそうなのがほほえましい。
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「で、ここですか?」
「そのようだな」
馬車を降りた二人の前には、そこそこ大きなお屋敷がある。
午前中に訪れたゴリューコフ家とは比べるべくもないが、それでもお屋敷の名にふさわしい大きさだ。
「朝はゴリューコフ家、夕方にはルトフスキー家。忙しいことですわね、旦那様」
クスッと笑うヴァレフィア。
「ふん。言ってろ」
言われなくても自分でも何をやっているのやらとは思うのだ。
だが、何となくここまでくると手を引く気になれない自分がいるとコルチャスキーは思う。
「で……お気づきですか旦那様?」
「ああ……感じるな……」
門の前に立った時からすでに感じてはいた。
この屋敷にはかすかに魔力が漂っているのだ。
それも屋敷内から漏れ出ているらしい。
「いる……ということかな……」
「そうかもしれませんわね、旦那様」
コルチャスキーもヴァレフィアも表情が引き締まる。
無意識的に魔力を垂れ流しているやつなのであれば問題はそれほどでもない。
だが、意識しているにもかかわらず魔力が漏れ出してしまうような奴が相手だとすれば、ちょっと厄介ではある。
「行くぞ。油断するな」
「旦那様もですわ」
二人は意を決して屋敷の玄関をたたく。
すでにあたりは夕暮れが赤く染めており、躰に当たる風も冷たい。
だが、屋敷の中も暖かいとは言えない可能性が高かった。
「コルチャスキーと申しましたか? で、我が家のリーシアが戻ってこられぬと?」
応接間に案内されたコルチャスキー一行を、この屋敷の奥方であるアマーリア・ルトフスカヤ夫人が出迎える。
まだ若く妖艶な美女で、ドレス姿でもその胸の大きさが強調されているような感じだ。
だが、それ以上にコルチャスキーとヴァレフィアの目を引いたのは、彼女の胸を彩っている目のような模様の石をあしらったペンダントだった。
その石は紛れもなく魔力を持っていたのである。
「はい。たまたま通りかかった私が助けましたが、医師の見立てでは衰弱が激しいようで三日ほどは安静が必要とのこと。そのことをお伝えに参りました」
「左様でしたか。それはわざわざありがとうございました。リーシアも調子が悪いならばそう言えばいいものを。あとでメイド長に一言言ってやらなくてはなりませんね。でも困りましたわ」
そう言ってぺろりと唇を舐め、値踏みするようにコルチャスキーとヴァレフィアを見るルトフスカヤ夫人。
「三日もリーシアがいないのでは、家のことが滞ってしまいますわぁ」
確かにお屋敷とはいえ、使用人の数に余裕を持たせている家などそうはない。
一人いなくなればその分他の者たちが大変になるのだ。
だからと言って、安静にしていなければならないリーシアをここに戻すわけにはいかないだろう。
たとえこの屋敷に魔力が漂うようなことが無かったとしても……
「そのことでしたらご心配なく。ここにおります者は我が家のメイド。そちらのメイドが復帰されますまでは、彼女をどうかここのメイドと思ってご使用ください」
「なっ?」
コルチャスキーの言葉に驚愕して言葉が出なくなるヴァレフィア。
「そ、それはどういうことでございますか、旦那様?」
精一杯自分を抑えてコルチャスキーに使用人としての態度をとる。
コルチャスキーにならともかく、他人にメイドとして使われるつもりなど全くないのだ。
冗談ではない。
「なに、言葉通りの意味だ。家で休ませている彼女に代わって、お前が三日ほどこのルトフスキー家でお手伝いをすればいい」
にやっと笑みを浮かべるコルチャスキーに、ヴァレフィアは口をパクパクさせるだけで言葉が出ない。
「そ、それは……ですが家のことがありますし……」
「なに、家のことはミズラフィア一人でなんとでもなるさ。三日ぐらい大丈夫だ」
必死に自分を落ち着かせて言葉を絞り出したヴァレフィアに、コルチャスキーはあっさりと言ってのける。
「まあ、それはうれしいお申し出ですわ。そちらの方は大変かわいらしい方ですし、主人も気に入っておりましたの。こちらに来られてしまわれたのは残念でしたが、お二人ともしばらく当家に滞在していただければよろしいかと」
ルトフスカヤ夫人は喜びを浮かべてそう言うと、背後に立っているメイドを呼んで何事か耳打ちをする。
「ありがたいお言葉ですが私には仕事もありますし、家に残してきた使用人のことも気になりますので、これで失礼させていただこうと思います」
コルチャスキーはその耳打ちが終わるのとほぼ同時にそう答え、席を立つ。
「まあまあ、良いではありませんか。おそらくじきに主人もここに戻ってくると思います。このままあなた方を帰しては私が主人に叱られてしまいますわ」
立ち上がったコルチャスキーに、再び椅子に座るよう手で示すルトフスカヤ夫人。
「やれやれ……」
肩をすくめるコルチャスキー。
主人とはいったい誰のことやら……
「どうやら私をも帰すつもりはないようですな」
「決まっておるだろう。この屋敷に入って平気な者をこやつらが黙って帰すつもりなどあるものか」
表情を引き締めたコルチャスキーの背後で、さっきまで不満そうにしていたヴァレフィアがにやりと笑う。
「あら? なんのことかしら?」
「とぼけられましても困りますな奥様。この部屋に充満する魔力にあてられ、普通の人間なら長くは正気ではいられますまい?」
奥方の胸の石のの発する魔力の一種だ。
おそらくこの屋敷にはもう正気の人間はいない。
夫人の背後にいるメイドたちも支配されるままにされた生き人形のようなものだろう。
「ふん、気付いておったのか。だが初戦は魔術師風情。使い魔ともどもおとなしくしておれば手荒な真似はしないでおいてやるが?」
夫人がスッと立ち上がり、コルチャスキーをにらみつける。
「つ? 使い魔? マージェコフ、こやつは相手の力量も見抜けぬおろか者だぞ!」
使い魔呼ばわりにヴァレフィアは憤慨する。
われが使い魔だと?
ふざけるな!
「まあ、そう見られるのも仕方あるまいよ。お前のその姿ではな。で、どうなんだ? いるか? 俺には感じ取れんが」
油断なく夫人と対峙するコルチャスキー。
「いないな。ここには魔力とあの女の胸にある物だけだ。あれで遠隔操作をしているのだろう」
ヴァレフィアが首を振る。
やはりここにも本体はいない。
すると……
「やはり……」
「ああ……気配を消すのだけは一級品だな。われも気付かなかった」
「むう……」
そういうことかとコルチャスキーは思う。
本体はすでに転がり込んできていたのだ。
だが、どうして我が家に?
「ところでマージェコフ。そなた先ほどは本気でわれをここに置いて帰ろうとしていたであろう?」
「ああ……奥方の反応を見てみたかったからな。場合によっては本体がこちらに戻ってくる可能性もあったし、それにミズラフィアの方が心配でもあった」
ポケットの中で魔道具を用意し、夫人を目で牽制しながら返事をするコルチャスキー。
「われをこのような状況の中に置いておく方が不安ではないのか?」
少し意外といった口調のヴァレフィア。
「それは無かったな。ここに本体がいないだろうというのは俺も感じたし、何があってもお前なら大丈夫だろうと思ったしな」
あっさり答えるコルチャスキー。
「ミズラフィアの方がまだ不安と?」
「そうだな……あの子はもう少し……」
「ふん……われをそんなに信用していいのか?」
「信用も信頼もしているさ。かわいいメイドだからな」
「…………ふん」
それっきり無言になるヴァレフィア。
だがその口元が緩んでいることにコルチャスキーは気付いていた。
「何をごちゃごちゃと。おしゃべりはやめてそこにおとなしく座るがいい魔術師。主様はお前のような魔術師から精気を奪いと……」
パキーンという大きな音とともに、夫人の胸に輝いていたペンダントが砕け散る。
「ひあっ!」
衝撃に一瞬目を見開き、そのまま崩れるように床に倒れるルトフスカヤ夫人。
ほぼ同時に夫人の背後にいたメイドたちも倒れていく。
「ふん……生きた操り人形ごときがいつまでも口を動かすものではない。われを使い魔だなどと……」
夫人に向かってかざしていた手を下げるヴァレフィア。
その行為に一瞬唖然としたコルチャスキーだったが、すぐに夫人のところに行って生死を確かめる。
どうやら気を失っているだけのようで一安心だ。
「ふん、この女たちを支配していたつながりを断ち切ってやったまでのこと。石に封じられていた者が石に魔力を込めて使ってくるとはな……」
ヴァレフィアがあきれたような表情をする。
「ふう……とりあえずしばらくすれば目を覚ましそうだ。放っておいても大丈夫だろう」
倒れたメイドたちも確認し、ヴァレフィアのところに戻ってくるコルチャスキー。
「ふふ……」
「な、なんだ? 何かおかしいのか、マージェコフ?」
小さく笑ったコルチャスキーをヴァレフィアが見上げる。
「いや、俺もまだまだだなと。お前の反応を読み損ねていた。使い魔呼ばわりなどされて黙っているはずがなかったな」
「ふん……当然ではないか。われを使い魔だなどと……」
倒れているルトフスカヤ夫人をヴァレフィアはにらみつける。
よほど頭に来たのかもしれない。
それでも、夫人を殺したりせずにペンダントだけを破壊したのは、自制心の表れなのだろう。
「それで? こいつらはどうするのだ?」
「放っておく。そのうち目を覚ますさ。それよりも家に戻るぞ」
そういうとコートと帽子を取りに行くコルチャスキー。
「ミズラフィアのことなら心配はないと思うぞ」
「それでもだ。本体が向こうなら放っては置けない」
「…………ふん」
帽子とコートを手にして部屋を出るコルチャスキーを、ヴァレフィアは追いかけた。
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「で、いつ気付いたのだ?」
通りに出てなんとか見つけた辻馬車に乗り込む二人。
コルチャスキーは御者にできるだけ急ぐように言い、シートに腰を下ろして息をつく。
「確信したのは俺までも足止めしようとしたときかな。屋敷に戻られると困るということだろう。ならば屋敷での目的は何か?」
「ミズラフィアだな」
ヴァレフィアが答える。
「ああ……あのリーシアという娘には“女神の涙”に封じられていたやつが取り憑いていたんだろう。 俺もお前も気付かなかったがな」
「隠れることにかけては一級品だな」
「ああ……だが、あの子の衰弱は本物だ。おそらく取り憑く器としては力が足りなかったといったようなものだったんだろう。だから……」
「それでミズラフィアを選び、そなたの家に転がり込む手はずを整えたと?」
「いや、最初の狙いはお前だったんだろう」
首を振るコルチャスキー。
「われが?」
ヴァレフィアがきょとんとする。
「そうだ。お前は俺と時々出歩いているからな。相手の目にも付きやすかったんじゃないか? それにお前はその躰に封じられたことで極力外に魔力は漏れないようにはなっているが、それでもわかるやつにはお前が強い魔力を持っていることはわかるだろうし」
「われを器にするつもりだったと?」
「たぶんな。あの夫人が主人もお前を気に入っていると言っていただろう? 彼女の主人とはすでに夫ではなく、“女神の涙”から抜け出た魔物のことだったのさ」
「むう……われを器にだなどと……」
ほっぺたを膨らませるヴァレフィア。
怒ってはいるのだろうが、なんとも仕草はかわいらしい。
「本当ならやつはお前でもミズラフィアでも選び放題だったのだろう。あの娘のことは翌日にでも回し、一晩ぐっすり眠ってからとなるのが普通だっただろうからな」
「そなたやわれらが眠っている間に……ということか?」
「だろうな。だが、俺がさっさとお前を連れだして屋敷に行ってしまった。メインターゲットはいなくなったが、サブターゲットとは二人きり。行動に移すと思うが……どうだ?」
「ふん……なら問題はあるまい。今頃はケリがついている」
にやりと笑うヴァレフィア。
「だといいが……」
コルチャスキーには一抹の不安がある。
ミズラフィアがなんともなければいいが……
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「ミズラフィア!」
馬車から飛び降り、そこから玄関に走り込むコルチャスキー。
ドアを開けるのももどかしく、中に入るなりミズラフィアの名を呼ぶ。
「あ、お帰りなさいませ、旦那様」
ぱたぱたとすぐに玄関ホールにやってくるミズラフィア。
どこにも変わった様子はない。
「ミズラフィア、無事か?」
コルチャスキーがすぐに駆け寄って両肩を掴む。
「えっ? あ? は、はい」
思いもしないコルチャスキーの行為にミズラフィアは戸惑ってしまう。
「むう……だから問題ないと言ったではないか! 人の話は聞くものでございますわよ、旦那様」
御者に料金を支払ったため一歩遅れて家の中に入ってきたヴァレフィアは、コルチャスキーがミズラフィアの肩に手を置いているのを見てややムッとする。
「あ、ああ……ミズラフィア、なんともないか?」
「な、なんともと申されますと? 特に何も……」
ミズラフィアには何がなんだかわからない。
「ふん……ミズラフィア、旦那様はミズラフィアが器にされてしまったのではないかと心配していたのだ」
ヴァレフィアが腕組みをして二人を見ている。
「器? あ、もしかしてさっきのでしょうか?」
ミズラフィアはハッとしたように顔を上げる。
「何かあったのか?」
「えっ? そ、その、何かがこの躰に入りこもうとしてきまして……」
真剣な表情で自分を見つめてくるコルチャスキーに、ミズラフィアはドキドキしてしまう。
「入りこもうと? それでどうした?」
「は、はい。うっとうしいので消しました。いけなかったでしょうか?」
ミズラフィアは申し訳なさそうに上目遣いでコルチャスキーの顔を見る。
「は? 消した?」
「はい。消しました」
驚くコルチャスキーにミズラフィアが繰り返す。
「消した……とは? 文字通り消したのか?」
「はい。消しましたが……」
「あはっ……あはははははは」
けたたましく笑いだすヴァレフィア。
二人のやり取りが見ていて可笑しくなってしまったのだ。
「ヴァ、ヴァレフィアお姉さま?」
いきなり笑われたミズラフィアには何が何だかさっぱりわからない。
「あはははは……言ったとおりであろう? ミズラフィアなら心配ないと。だいたい相手が何者かもわからずに取り込もうとするような愚か者が、ミズラフィアに歯が立つはずがない」
「私を取り込もうと?」
びっくりするミズラフィア。
相手がそんなことを考えて入りこんできたとは思いもしなかったのだ。
「ミズラフィアはもともとわれに匹敵する魔人ミズングム。まあ、もちろんわれにはかなわなかったがな。そんな相手に少々の魔物が食い付いたとて、自滅以外のなにものでもないわ」
ヴァレフィアがふふんと鼻を鳴らす。
「すると“女神”とやらは?」
「かけらも残さず消え去ったであろうな。そうであろう、ミズラフィア?」
「はい。気にもしなかったのでどうなったかはわかりませんけど、たぶん完全に消え去ったかと」
「は、ははは……」
二人の会話に力なく笑うコルチャスキー。
わかってはいたつもりだったが、この二人は相当に強力な魔人なのだ。
「だが、それにしてもすごいな。離れた屋敷の中の人間をまるごと支配できるような魔物だったろうに」
「ふん、それがたいしたことがない証拠よ。あのような石に力を込め、それを通してじゃないと支配できなかったではないか。われやミズラフィアならあのようなものがなくとも人間程度ならいくらでも支配できるわ」
ヴァレフィアがふふんと胸を張る。
「そうなのか?」
確かにこの二人がどれほどの力を持つのかなど、試そうとも思わなかったのは確かだ。
魔人など封じておくに越したことはない。
「ふふん……旦那様はまだ、私とミズラフィアが力を出せばこのスクロヴァなど消し飛ぶことをお分かりになられていらっしゃらないご様子。試してみましょうか?」
ニヤッと笑うヴァレフィア。
もちろんそんなつもりは微塵もないくせにだ。
「やめておけ。アザロフのチョコレートが食べられなくなるぞ」
「そ、それは困ります。やめましょう、ヴァレフィアお姉さま」
「むう……アザロフがなくなるのは困る。そうするのだ」
アザロフの名を出しただけであたふたと慌ててしまう二人。
そんなにチョコレートがいいのか?
思わずコルチャスキーは笑いそうになってしまう。
「ところで彼女は、リーシアさんはどうしている?」
「まだぐっすりとおやすみかと」
「“女神”とやらに取り憑かれていたようだからな。精気を吸い尽くされておるのだ。しばらくすれば回復するだろう」
二人の言葉にコルチャスキーもうなずく。
「そうとわかればなんだか腹が減ったな。遅くなったが夕飯にしよう」
「かしこまりました、旦那様」
「それじゃわれも手伝おう」
二人のメイド少女が連れ立ってキッチンに向かう。
やれやれ……
長い一日だったな……
コルチャスキーは息を一つ付くと、椅子に腰を下ろすのだった。
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「ふう……」
二人が用意してくれた美味しい夕食を終え、ゆっくりとお茶を楽しむコルチャスキー。
テーブルの方では後片付けを終えた二人が、今日の分のチョコレートを味わっている。
なんと言うか平和な光景だとコルチャスキーは思う。
この光景もいつの間にかすっかり見慣れてしまったものだ。
「ミズラフィア」
「はい、なんでしょうか旦那様?」
すぐに立ち上がろうとしたミズラフィアを手で制するコルチャスキー。
「いや、用事じゃないんだ。その……本当になんともないのか?」
「はい。私はなんとも」
ミズラフィアが笑顔で答える。
実際に何も問題はないのだ。
「心配性だなそなたは。そんなの決まっているではないか」
チョコレートを平らげ、ぺろりと唇を舐めるヴァレフィア。
「いや、なんと言うか……影響を受けたりとかしないのか?」
普通の人間なら魔人の悪意になど触れれば、その魔人から引き離したとしても性格がゆがんでしまったりするものなのだ。
そういう影響を受けたりはしないのだろうか?
「ふん、われらに影響を及ぼせる魔物などそういるものか。なあ、ミズラフィア」
「はい。ヴァレフィアお姉さまの言うとおりだと思います」
お互いに顔を見合わせる二人。
「“女神”とやらは消滅した。もはやその痕跡すら感じないな」
確かにそれは感じない。
だが、リーシアに取り憑いていた時も感じなかったのだ。
まあ、ヴァレフィアが言うように消滅したのなら問題はないが。
「結局、よくわからんうちに終わったということか」
「そういうことだな。だいたいわれらを狙うのが悪い。相手を見極めるべきだったのだ」
カップのお茶を飲み干すヴァレフィア。
ミズラフィアもチョコレートを食べ終えて満足そうな表情をしている。
まあ、本当に何事も無くて良かったというべきなのだろう。
コルチャスキーはそう思う。
「ところでそなた、この機会に屋敷の周囲のうるさい連中を片付けたりはしなくていいのか?」
「うるさい連中?」
コルチャスキーがヴァレフィアに聞き返す。
「使い魔どものことだ。現状この屋敷はカラスと猫に囲まれておるぞ」
「あー、確かに猫ちゃんよくいますよね。使い魔だとわかっててもかわいいです」
ミズラフィアが笑顔になる。
「そうだなぁ……まあ、放っておくしかなかろう」
「そなたが結界を張っているから、この屋敷の中まで覗くことはできないであろうがいいのか? 覗き屋どもだぞ?」
「猫ちゃん追い払っちゃうのですか?」
「ミズラフィア……あれらは使い魔で、われらを覗きに来ておるのだぞ」
「そうですけどぉ……」
一瞬にして悲しそうな顔になるミズラフィア。
彼女が時々庭先で猫とじゃれ合っているのをコルチャスキーは知っている。
「いや、いいんだ。放っておくさ。いきなり追い払ったりしたら、俺が何か良からぬことを企んでいると勘ぐりかねん。ひいては我が国が戦争準備を始めたなどと誤解するやつも出てくるかもしれんからな」
まあ、見たいやつには見せておくさ。
「まあ、それならそれでよいが……」
少し不満そうなヴァレフィア。
一方ミズラフィアには笑顔が戻る。
「それより俺は明日は仕事だ。家のことと彼女のことを頼むぞ」
「ふん、それくらいは任せておけ」
「ご安心ください、旦那様」
やれやれ……
強大な魔人とやらを二人もメイドとして使っているなど、世界広しと言えども俺ぐらいかもな。
コルチャスキーは苦笑した。
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「本当にお世話になりました」
ルトフスキー家の玄関先でぺこりと頭を下げるリーシア。
すっかり回復して頬にも血色が戻っている。
見るからに活発そうな元気娘だ。
数日前の衰弱した雰囲気はもう微塵もない。
「コルチャスキー殿、我が家のメイドの面倒を見ていただいたこと、礼を申します」
ルトフスカヤ夫人もにこやかに礼を言う。
「いえいえ、こちらこそ差し出がましい真似をしたと恥じ入っております。ただ、彼女が元気になられてよかった」
どうやら先日の一件を夫人はよく覚えていないようだ。
まあ、ペンダントを通じて魔物に支配されていたのだから、その間の記憶があいまいなのだろう。
それはそれでいいとコルチャスキーは思う。
「それではこれで失礼いたします。馬車を待たせておりますので」
コルチャスキーが頭を下げ、背後に控えるヴァレフィアもそれに倣う。
夫人はなにがしかのもてなしをと思ってはいたようだが、これ以上関わることもあるまい。
早々に辞去して待たせた馬車に乗り込むコルチャスキー。
すぐにヴァレフィアもあとに続く。
二人を乗せた馬車はガラガラと車輪の音を響かせて、ルトフスキー家を後にした。
「やれやれ、これで一段落だな」
ふうとシートにもたれかかって息をつくコルチャスキー。
「ふん、結局ただ働きとは酔狂なことだ」
「あの家の人間たちは“女神”に利用されていただけだからな。事細かに説明して金を要求するなど俺には無理だよ」
「ふふん」
コルチャスキーの返事にヴァレフィアは苦笑する。
そもそも、“女神”とやらを消滅させたのはミズラフィアであって自分ではないのだ。
金などもらえるはずもない。
「それよりも一ヶ所寄るがいいか?」
「寄り道? 別にかまわぬし、そもそもそなたはわれの旦那様だ。われはおとなしく付き従うのみだぞ」
「ふふ……そうだったな」
今度はコルチャスキーが苦笑する。
今のところは……かな?
「メガネ屋?」
「ああ」
市場の一角で馬車を止めて降りるコルチャスキーたち。
そのまま馬車を待たせて一軒のメガネ屋に入っていく。
「そなた……いえ、旦那様、お目を悪くなされたのですか?」
すでに店の中であることを思い出し、慌てて言い直すヴァレフィア。
「ん? ああ、いや、別にそうじゃないんだ。メガネが一つ欲しくてな」
「目が悪いわけではないのにですか?」
「ん……まあな」
言葉を濁しつつ女性用の眼鏡のコーナーに向かうコルチャスキー。
そこで店主に言いつけ、ケースから一つ取り出してもらう。
「かけてみろ、ヴァレフィア」
「は?」
ヴァレフィアがメガネを渡され、唖然とする。
「だ、旦那様、わ、私は目は……」
「いいからかけてみてくれ」
目は悪くないと言いかけたヴァレフィアをコルチャスキーはさえぎる。
「は、はい」
仕方なく渡されたメガネをかけてみるヴァレフィア。
「あれ?」
特に視界がゆがんだりはしない。
「これは?」
「まだ特に度が入っているわけじゃないからな。見え方に問題はあるまい? それよりもそのままじっとしててくれ」
「は、はい」
仕方なくおとなしくじっとするヴァレフィアを、コルチャスキーはしげしげと眺めていく。
「ふーむ……どうかな?」
「いやぁ、良くお似合いですよ旦那さん。この子のかわいさが増したっていうものです」
にこにこと愛想よく答える店主。
まあ、売りたいのだから似合うとは言うだろう。
とはいえ、メガネをかけたヴァレフィアは悪くない。
店主の言う通りかわいさが増している感もある。
これにするか……
「よし、これにする。お願いします」
コルチャスキーはヴァレフィアから目眼を外し、店主に渡してケースに入れてもらうように頼む。
「えっ? レンズに度は?」
「いらない。このままでいい」
「さようでございましたか。かしこまりました」
伊達メガネでいいと知り、すぐにケースを用意しに行く店主。
「旦那様、あれはいったい?」
「後で説明するよ」
「はあ……」
ヴァレフィアは困惑するしかない。
「そのメガネはどうするつもりなのだ?」
メガネ屋を出て馬車に戻ったヴァレフィアは、さっそくコルチャスキーに聞いてみる。
「ん? ミズラフィアに渡そうと思ってな」
「ミズラフィアに?」
「ああ……」
コルチャスキーはケースからメガネを取り出し、フレームに嵌まったガラスを眺めている。
「うん……たぶんなんとかなるだろう……」
コルチャスキーは微笑んだ。
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「お帰りなさいませ旦那様、ヴァレフィアお姉さま」
玄関に出て帰ってきた二人を出迎えるミズラフィア。
「ただいま。しばらく部屋にこもる。夕食になったら呼んでくれ」
「あ、はい。かしこまりました」
挨拶もそこそこにすぐに自室に向かってしまうコルチャスキーに、ミズラフィアはそう返事するしかない。
「まったく……あわただしいことだ」
一歩遅れて家に入ってきたヴァレフィアも、苦笑しつつコルチャスキーの後ろ姿を見送るだけ。
「どうかしたのでしょうか?」
「ミズラフィアにメガネを渡すつもりらしいよ」
「は? メガネですか?」
「そういうこと」
言われて思わずきょとんとするミズラフィア。
どうしてメガネなど……
「ミズラフィア、ちょっといいかな?」
「え? あ、はい、旦那様」
夕食には普通に顔を出し、二人の用意してくれた夕食を食べて食後のお茶を飲んでいたコルチャスキーがミズラフィアを呼ぶ。
ざっとした片づけを終え、ヴァレフィアと一緒に今日の分のチョコレートを楽しんでいたミズラフィアは、すぐに席を立ってコルチャスキーのもとに来た。
「これをかけてみてくれないか?」
ミズラフィアに手渡されたのはメガネのケース。
中にはメガネが入っている。
ヴァレフィアお姉さまの言ったとおりだ。
「これは? あの……私は目は」
「いいからかけてみてくれ」
コルチャスキーににこやかにそう言われ、ミズラフィアはとりあえずメガネをかけてみる。
「あれ?」
予想に反して視界がゆがまないことに驚くミズラフィア。
メガネというものはレンズを使っているために、目の悪くない者にはかえって視界がゆがむと聞いていたからだ。
「うん。問題ないようだな。一度はずしてくれ」
「あ、はい」
ミズラフィアが眼鏡をはずす。
「もう一度かけて」
よくわからないものの、言われたままにメガネをかけるミズラフィア。
「うん、大丈夫だ。見え方に問題はないか?」
「ええ、はい。大丈夫です」
確かに見え方は問題ない。
かけてないときと同じように見えるのだ。
「ちょっとおいで」
「はい」
コルチャスキーはミズラフィアを洗面所へと連れて行く。
そこには鏡があるからだ。
「見てごらん」
「はい。えっ?」
コルチャスキーに言われ、鏡を見るミズラフィア。
そこには普段見慣れた自分の顔が眼鏡をかけていたが、その目は青かったのだ。
「えっ? ええっ?」
慌てて眼鏡をはずしてみるミズラフィア。
すると目はいつものように赤い。
あらためてメガネをかけてみると、目の色は青くなる。
これは不思議なメガネだ。
「ふん……やはりそういうメガネであったか」
いつの間にかヴァレフィアも洗面所にやってきている。
「ああ……リルシェバがどうしてミズラフィアの目を赤くしたのかは今度聞いてみるつもりだが、とりあえずはこれをかければ普通に外出しても問題はあるまい?」
「そうだな。この街には青や茶の目の人間はおるが、赤い目の人間は見ないからな」
腕組みをしてうんうんとうなずくヴァレフィア。
「そのために私にメガネを?」
「ああ。聖レドフスキーの日にはちょっと早いが、プレゼントとして受け取ってもらえるとありがたい」
コルチャスキーがミズラフィアにうなずく。
「ありがとうございます旦那様。とてもうれしいです」
ぱあっと顔が明るくなるミズラフィア。
うれしいというのは間違いなさそうだ。
「よかったなミズラフィア。これで今度は一緒に街に出かけられる」
「はい。旦那様も一緒に」
ヴァレフィアとミズラフィアがにこやかに笑い合う。
やれやれ……
これからは出歩くときには二人とも連れて行かないとならないな……
コルチャスキーはそう思う。
だが、それも悪くない。
今回は二人のおかげで助かったのだ。
アザロフのチョコを予約しに行くついでに、二人と街を歩くのもいいかもしれないな。
きっと楽しい時間になる。
コルチャスキーの口元には、思わず笑みが浮かんでいた。
END
以上です。
ちょっとあっけない話になってしまいましたが、なにせ二人が強力でして。
(^o^;)ゞ
よろしければ感想コメントなどいただけますと嬉しいです。
それでは今年も「舞方雅人の趣味の世界」をよろしくお願いいたします。
ではではまた。
- 2023/01/03(火) 19:00:00|
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