大正七年。
日本に初めての戦車が輸入され、報道関係に紹介されました。
そのときの新聞報道はいずれも『怪物現る』といった感じの報道であり、装甲を纏った装軌式車両を始めて見た人々の驚きを感じさせます。
当時輸入された戦車は英国製のマークⅣ戦車。
その砲塔の無い独特のスタイルから、菱型戦車と呼ばれたものでした。
『戦車』と言う言葉は日本陸軍の奥村大尉という方が考案したそうで、それまでは『タンク』とそのまま呼ばれたようですが、以後、戦車は日本の国民にも存在を知られ、陸軍の中心として活躍することになります。
当時は戦車は陸軍の中でも輜重科の所属でした。
輜重科というのは、主に補給を担当する兵站部門であり、戦車とはまったく相容れないものです。
しかし、陸軍の中にあって、当時自動車を扱っていたのは、輸送用のトラックを持った輜重科だけだったのです。
そのため、戦車は輜重科が扱うこととされ、後に独立するまで戦車を扱うことになったということでした。
さて、軍艦、航空機と並んで兵器としてのインパクトがある戦車は、軍の検閲の元報道にもしばしば顔を出すようになります。
特に太平洋戦争中は鉄牛部隊というあだ名を付けられ、マレーやシンガポールなどの南方方面で活躍するシーンがたびたび報道写真とともに新聞の紙面を飾ります。
ところが、新聞記者も編集部も戦車とは何かということを理解していないのか、それとも軍の報道をそのままただ載せているのか、時に『我が鉄牛部隊、マレーにて敵戦車二十数台撃破!』のような文字が紙面を飾ることになります。
当時マレー半島に居た英軍は戦車持っていないんですよね。
あったのは履帯を履いた牽引車、キャリアーだったんですね。
確かに薄いとは言え装甲板はあります。
しかし天井もなく、機関銃を一丁付けただけの牽引車では、戦車とは雲泥の差です。
そんなものが何両あったところで、95式や97式戦車の敵ではありません。
踏み潰されるのが関の山です。
つまり、単なる装甲牽引車をさも『英軍の戦車』を何両も撃破したかのように報道していたんですね。
まだ戦勝華々しい時期のことですから、検閲もそれほどではなかったと思います。
おそらくは戦車と装甲牽引車の違いがわからなかったのでしょう。
これは現代にも通じることでは無いでしょうか?
大砲が付いていれば装甲車も戦車も区別がなく、甲板が平らであれば空母も強襲揚陸艦も区別が無い。
現代の新聞報道も大差が無いと思います。
それでも最近はかなり改善されているかな?
日本では軍事に関わるものは全てタブー視されてきました。
でも、知らなければ判断も付かないと思います。
知った上で判断する。
軍事もそうだと私は考えます。
それではまたー。
- 2006/09/05(火) 21:31:12|
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真実を知らないと言っている事に説得力ありませんからね~。
語る立場にある人間は注意しないといけないことですね。
気をつけましょう・・・
- 2006/09/05(火) 23:02:21 |
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- 静寂 #8U7KPG92
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戦車という言葉自体、新しいものだったのですね。その区別が十分でないまま、報道されればそうなるのは必然かもしれませんが、やはり、軍事機密を設けなければ相手に策を練られてしまうわけで、難しいところですね。
>大砲が付いていれば装甲車も戦車も区別がなく、甲板が平らであれば空母も強襲揚陸艦も区別が無い。
これは致し方ないのではないでしょうか?現代ではやや改善されているとはいえ、平和を謳う憲法のお国柄、それほど詳しく教えても何で持ってるんだということになるでしょうし、万人がわかるような説明は難しいでしょうしね。
- 2006/09/06(水) 10:22:37 |
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- ALTION #LapiYBeE
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>>静寂様
私もかじったような知識でここに書いているものですから、えらそうなことは言えないですね。
でも、できるだけいろいろと調べてから書くことにしております。
気をつけますねー。
>>ALTION様
軍と政府と報道機関というのはいつの世にも絡み合うものですよね。
報道は中立でなくてはいけませんが、それがなかなか難しい。
確かにおっしゃるとおり、戦車と装甲車の区別などは、区別したい人だけが区別していればいいのかもしれません。
ただ、報道する側はある程度はわかって欲しいなと思ったものですから。
甲板にアンテナが林立する揚陸指揮艦を空母といわれた日にゃ。(笑)
- 2006/09/06(水) 21:51:03 |
- URL |
- 舞方雅人 #-
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