二回目です。
それではドゾー。
「おはようございます」
職員室にはまだ人影はまばら。
真奈美は割りと早めの出勤を心がけているために、まだ来ていない教師たちも多いのだ。
とりあえず自分の席に着き、通勤途中で買ってきた無糖の缶コーヒーと眠気覚まし用のガムをカバンの中から取り出す。
えっ?
真奈美の表情から血の気が引く。
ど、どうしてこれが?
真奈美はすぐさまカバンの中にあった“それ”を取り出してポケットに入れる。
そして周囲を窺うようにして、誰も今の行為を見ていないことにホッとした。
真奈美はすぐさま立ち上がると、職員用のトイレに向かう。
その間、彼女の右手はポケットの中に押し込まれたままだった。
ど、どうして・・・
私・・・
どうして?
トイレの個室に入り込んで鍵をかける。
心臓がドキドキと早鐘のように打っている。
右手に感じる硬質な気配。
あってはならないものがそこにある。
どうして?
確かに見惚れて手に取ったけど・・・
ちゃんと置いてきたはずよ。
恐る恐る取り出される真奈美の右手。
握られたこぶしの中にその感触は確かに存在している。
でも・・・
これは何かの間違いだわ・・・
私はこんなのもっているはずが無い。
目を閉じておずおずと手を開く。
目を開ければそこには何も無いはず。
そう信じて真奈美は目を開け・・・そして唇を噛み締めた。
真奈美の右手の上にあるのは一本の口紅のスティック。
朝、いつものコンビニで見かけたものだ。
今までならまるで気にもしなかったはずの色の口紅。
鮮やかな赤紫色の口紅が真奈美の手の平に乗っていた。
「持って・・・来ちゃったんだ・・・わ」
そんなことは信じたくない。
口紅を持ってくるなんてありえない。
しかもこんな毒々しい赤紫色の口紅なんて・・・
確かに朝これに目を惹かれたのは事実。
でも・・・
置いてきた記憶が・・・
どうして・・・
どうしてこんな色の・・・
こんな赤紫色の・・・
綺麗な赤紫色の・・・
綺麗・・・
「うふふっ・・・」
真奈美の口元に笑みが浮かぶ。
ぎゅっと握り締められる右手。
そのまま個室を出ると、手洗い場の鏡に向かい合う。
右手に持ったスティックのキャップが抜き取られる。
下部をねじって中身を露出させる。
赤紫色の口紅が姿を現し、真奈美はそれを少しの間うっとりと眺めていた。
やがて、真奈美の右手はおもむろに口紅を口元に運んで塗っていく。
綺麗なナチュラルピンクの唇が、見る間に赤紫色に染まっていく。
「ん・・・」
唇を重ね合わせ、前後にずらして口紅の載りを確かめる。
赤紫色の唇をした真奈美が、鏡の向こうで微笑んでいた。
「あ、大河内センセ、おはようございます」
職員用トイレに入ってくる白衣の女性。
養護教諭の美並原紀江だ。
いつものように優しい笑顔に真奈美もつられて笑みが浮かぶ。
「おはようございます美並原先生」
にこやかに微笑んだ真奈美の顔に一瞬怪訝な顔をする紀江。
だが、その違和感の元が真奈美の唇にあることに気がつくと、その表情から笑顔が消える。
「大河内センセ、とても素敵な色の口紅ですけど、そのまま授業を行うつもりですか?」
「えっ?」
慌てて鏡を見直す真奈美。
妖しい赤紫色の唇がその目に飛び込んでくる。
「ええっ? わ、私・・・どうして・・・」
愕然としながらもティッシュを取り出して口紅を拭い落とす。
「気がついていなかったんですか?」
「あ・・・それは・・・あの・・・」
唇を拭いながら言葉を捜す真奈美。
どうしてこんな口紅をつけてしまったのだろう・・・
わからない・・・
わからない・・・
「どうしたんですか? 大河内センセ」
様子のおかしさに紀江はちょっと戸惑うが、真奈美は何も言わずにトイレから飛び出して行ってしまう。
残された紀江は首をかしげるしかなかった。
どうかしてる・・・
私どうかしてるよ・・・
いったいどうしちゃったんだろう・・・
何かの病気かしら・・・
トイレを飛び出した真奈美は、廊下の壁によりかかって呼吸を整える。
気がつくとポケットに入れていたはずの口紅を握り締めていた。
こんな口紅を盗んじゃったから?
こんな口紅を・・・
一瞬口紅を放り投げてしまおうかとも思ったが、そうも行かない。
使ってしまったけれど、ちゃんと帰りにでもあのコンビニで代金を支払わなければ・・・
そう思いなおして、真奈美は再びポケットに口紅を入れなおした。
シンと静まりかえっている教室内。
筆記具が紙に擦れる音しかしてこない。
期末試験を目前に控えた段階での小テスト。
みんなが必死に取り組むのも無理は無い。
この問題の中から期末試験に出ることもありえるのだ。
日本史と言う個々人の興味の差がはっきりする分野の授業では、こういう小テストで繰り返しポイントを教えて行くのが有効だと真奈美は思う。
残り10分・・・
腕時計から目を上げると、早くもあきらめムードを漂わせた娘と、仕上げてしまって用紙の裏にイラストを書いている娘とが見受けられる。
窓際の席にいるあきらめムードの少女は、もはやテストには何の興味も無いように窓の外に目を向けていた。
真奈美は苦笑した。
頴原(のぎはら)さんたら・・・マドの外に何かあるとでもいうのかしらね・・・
マド・・・?
マド・・・
マドー・・・
マドー・・・
マドーマドーマドーマドー・・・
マドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドーマドー・・・
頭の中で渦を巻く意味不明な言葉。
「うわあぁぁぁぁぁ」
自分が悲鳴を上げたことに気がつき、真奈美は我にかえる。
生徒たちがいっせいに彼女の方を見て、困惑の表情を浮かべていた。
「あ・・・ご、ごめんなさい。ついうとうとしちゃったみたい」
とっさにごまかす真奈美。
爆笑に包み込まれる教室内。
親しみやすい教師と評判の大河内真奈美は、さらにその評判を高めるのだった。
面白くない・・・
教室でうたた寝をしたとして、真奈美は教頭に説教を食らったのだ。
事実はそうではなかったが、何が起こったのか自分でもわかっていないだけに腹立たしい。
それに今日はいつもよりも教頭のことが憎らしく感じる。
くだらない人間のくせに偉そうに説教するなんて赦せない。
ボキリ
握っていたプラスチックのボールペンが二つに折れる。
いらいらするわ・・・
こんなもの折ったぐらいじゃ落ち着かない。
いっそ一人ぐらい殺してしまおうかしら・・・
どうせ役に立たない人間たちばかりだもの・・・
「大河内先生、ボールペンが・・・」
隣の席の男性教師が驚いて彼女の方を見ている。
この男もくだらない人間の代表格。
つまらない授業で彼女の可愛い教え子たちの成績を下げている。
生きている資格など無い人間だわ・・・
始末してやりたいぐらい・・・
真奈美は男性教師をにらみつけると席を立つ。
少しこの場から離れないと息が詰まってしまいそうだ。
真奈美はポケットの中に手を入れ、そこにあるスティックを取り出して、職員トイレに向かっていった。
紫色の口紅。
とても美しくて見ているだけで吸い込まれそう。
自分の唇が紫色に染まったら・・・
どんなに気持ちがいいだろう・・・
赤い口紅なんて気持ち悪い。
紫色こそが私には相応しいわ。
でも・・・
でも今はダメ。
今はまだその時ではない・・・
今はまだ・・・
真奈美は口紅をネジって先端を出すと、手洗い場の鏡に映る自分の姿の唇にそっと塗りつける。
鏡の中で真奈美の唇は紫に染まり、とても妖しく微笑んでいる。
真奈美はしばらくうっとりとそれを眺め、やがて職員トイレを後にした。
「スミスミー! アヤアヤー! 待ってよぉ」
廊下を走っていく一人の少女。
先に行く二人の少女を追っているのだろう。
でも、だからといって廊下を走っていいことにはならない。
ましてや常日頃から個人的付き合いも無いではないとは言え、教師の前で走るなど論外なことだ。
「山咲さん!」
真奈美の制止の声に思わず足を止める少女。
恐る恐る振り返り、声の主を確認する。
「ま、真奈美先生」
あちゃーと言う感じで思わず天を仰ぐ。
「廊下を走ってはいけないことぐらい知っているでしょ? ダメじゃない」
いつもならこの程度で終わらせるのだが、真奈美はふと少女の向こうではらはらしながら待っている二人の少女が目に止まった。
綾・・・それに雷純玲・・・
どす黒い感情が沸き起こる。
目の前の少女、山咲千尋はあの二人の元に行こうとしていたのだ。
よりにもよってあの純玲のところに・・・
「ちょっと来なさい」
真奈美は思わず千尋の手を取っていた。
「えっ? あ・・・その・・・真奈美先生?」
千尋は何がなんだかわからない。
確かに廊下を走ったのはまずかったけど、説教を食らうほどじゃないはずだ。
だが、千尋の手はがっちりと握られて、とても離せる状況じゃない。
あうー・・・お昼ご飯がぁ・・・
千尋は大人しく着いていくしかなかった。
階段の影になるあたり、人目につかない場所に千尋を連れ込む真奈美。
勢い込んでつれてきてみたものの、真奈美にはもう千尋に説教しようという気などはない。
ただ・・・
ただあの純玲に千尋を近づけたくなかった。
どうしてかわからないけど、純玲に千尋を近づけたくはなかったのだ。
「あ、あの・・・真奈美先生?」
不安そうに真奈美を見上げている千尋。
いったいどうしたのだろうと思っているに違いない。
真奈美はどうしたものかとあらためて千尋を見る。
長めにした黒髪がつややかで美しい。
ピンク色の唇もつやつやしている。
ピンク色?
違う・・・
この娘にピンクは似合わないわ・・・
それに・・・セーラー服・・・
どうしてこんなものを着ているのかしら・・・
この娘にはもっと違うもの・・・そう・・・レオタードだわ・・・紫色のレオタードこそ相応しいのに・・・
ああ・・・どうしてこの学校は制服が紫色のレオタードじゃないの?
変よ。
おかしいわ。
紫色のレオタードを着るべきよ。
赤紫色のレオタードを・・・
「真奈美先生?」
「千尋、動かないで」
「えっ?」
千尋は戸惑った。
親友の綾の従姉妹である真奈美先生は、純玲や千尋とも個人的に親しい関係を持っている。
日曜日に綾の家に遊びに行くと、真奈美先生も遊びに来たりすることが多いのだ。
だから、担任教師というよりも友達のお姉さんと言うイメージのほうが近く、真奈美先生自身も綾の家などでは千尋ちゃんと呼んでくる。
それでも、公私混同を避けるということで、学校ではきちんと苗字で呼んでいるのが普通だったのに。
千尋なんて呼び捨てにされるなんて・・・
だが、それがちっともいやじゃない。
それどころか今までよりももっと真奈美に近い存在であることを感じるようで嬉しかった・・・
真奈美がポケットから口紅のスティックを取り出す。
キャップを開けて下部をネジって先端を覗かせる。
その瞬間、千尋はその素敵な紫色に目を奪われた。
綺麗な紫色・・・
とても素敵だわ・・・
そう思っていると、真奈美の手が千尋に向かって伸びてくる。
あ・・・
真奈美の持つ紫色の口紅が、千尋の唇を染めて行く。
紫色が千尋の唇に広がると同時に、千尋はえも言われぬ幸福感を感じていた。
目の前で紫色に染まって行く千尋の唇。
見ているだけでゾクゾクする快感が背筋を抜けて行く。
これだわと真奈美は確信する。
これこそがこの娘には相応しい色。
彼女とともに歩むのに相応しい色なのだ。
後はレオタード。
赤紫色のレオタードを着る。
二人でおそろいの赤紫色のレオタードを着て、紫色の口紅を塗る。
それこそが二人の絆をより強固にすることになるのだ。
ああ・・・
なんて素敵なの・・・
真奈美は叫びだしたいくらいの悦びに包まれる。
千尋・・・
あなたは私のものよ・・・
一緒に・・・
一緒にお仕えしましょうね・・・
「はあ・・・真奈美先生・・・」
うっとりと夢心地でつぶやく千尋。
どうしたんだろう・・・
躰がふわふわする・・・
まるで雲の上にでもいるみたい・・・
嬉しい・・・
気持ちいいよぉ・・・
口紅を塗られることがこんなにも気持ちいいなんて・・・
先ほどまでは紫色の口紅なんてって思っていた千尋だったが、今では口紅は紫以外考えられなくなっている。
はあん・・・
先生にキスしたくなっちゃう・・・
一緒に抱き合いたいよぅ・・・
真奈美先生・・・
ま・・・な・・・み・・・
どちらからともなく抱きしめ合う真奈美と千尋。
お互いの唇が重なり合い、濃厚なキスが交わされる。
うっとりとした表情を浮かべ、目を閉じて唇の感触だけで心を通わせる二人。
やがて離される唇の間に唾液が一筋糸を引いた。
「先生・・・」
「千尋、あなたは私のものよ。これからも一緒に・・・」
真奈美は優しく語りかける。
「はい・・・」
先ほどまでのいぶかしげな表情とはまったく違う表情を浮かべ、千尋はゆっくりとうなずいた。
「先生と千尋、どこに行っちゃったのかなぁ。早くしないとお昼終わっちゃうのに・・・」
「廊下を走ったぐらいでお小言とは真奈美先生らしくないですわ」
「真奈美先生もお腹空いていたんじゃない? だから怒りっぽくなっていたとか。真奈美先生ってあれで結構食べる人だし」
「まあ、純玲ちゃんたら。うふふふ・・・」
「とりあえず教室へ戻ろうよ。千尋も戻っているかもしれないしさ」
廊下の方から声が聞こえてくる。
きっと純玲と綾の二人が千尋を探しに来たのだろう。
真奈美はハッと我にかえると、そそくさと千尋から手を離す。
「千尋、またあとにしましょう。気をつけるのよ」
何に気をつけなくてはいけないのかさっぱりわからなかったが、真奈美がそう言うと千尋もこくんとうなずく。
先ほどのキスで口紅が乱れていたので、ティッシュを取り出してそっと拭う。
紫色が落ちてしまうのは悲しいが、今はまだつけていないほうがいいだろう。
「それじゃね、千尋」
「はい、先生」
真奈美は自分の唇もティッシュで拭いながら、千尋のそばを後にした。
- 2007/11/28(水) 19:39:40|
- 魔法機動ジャスリオン
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