第6軍司令官荻洲中将はソ蒙軍への反撃を命じました。
各陣地からなけなしの兵力を抽出し、南側のソ蒙軍に対して攻撃を仕掛けたのです。
8月23日。
第6軍は関東軍司令部に対して電文を打ちました。
「敵はわが陣地全体に攻撃を仕掛けてきているため、その重点がなく迫力がありません。砲撃も激しいものではあるが今日の夕方には峠を越えました。各方面とも陣地は堅守しているのでご安心いただきたい。明日24日には予定通り敵に一撃を見舞ってやります。敵の後方撹乱もたいしたことはなく、砲撃でやや兵力を損なわれましたが、兵の士気は旺盛で問題ありません」
現状を知っての電文だったのでしょうか?
8月24日。
日本軍は確かに攻撃を開始しました。
しかし、攻勢に出るための準備すらない攻撃に何ができるのか。
兵を運んでくれるトラックが無いために攻勢発起点にすら向かえない部隊があったのです。
しかも各所の陣地からは兵力をむしりとられるように持って行かれてしまいました。
日本軍は攻撃することも守ることすらもできなくなってしまったのです。
日本軍の攻撃を受け止めたのはソ連軍第57狙撃兵師団でした。
確かに第57師団は日本軍の攻撃により多くの損害を出しますが、砲兵の支援も戦車の援護も無い歩兵だけの突撃はただただ日本軍兵士の命を失わせるばかりでした。
夕刻ごろにはソ連軍も立ち直り、戦車を中心として日本軍に反撃を開始。
日本軍の攻撃はわずか半日で頓挫したのでした。
21日にはすでに孤立していたフイ高地の井置中佐の部隊は弾も水も食料もなく4日間も戦っていました。
高地周辺の塹壕陣地ではソ連兵と日本兵が銃剣や手榴弾で白兵戦を行い、動くものが何も無いという状況まで戦っておりました。
無線も通じず、援軍の来る希望も無い。
井置中佐はついに部下たちを集めてフイ高地からの脱出を決断します。
24日夜、刀折れ矢尽きた状況の井置中佐率いる部隊はフイ高地を撤収。
味方陣地に向かって“前進”します。
759名中脱出できたのは269名でした。
8月25日から以後は日本軍はただただソ蒙軍の蹂躙に任せるだけとなりました。
攻撃のために兵力を抽出されたため、各所で陣地が撃ち破られ始めたのです。
26日には前線より後背にあるはずの重砲陣地にまでソ蒙軍が接近。
穆稜(ムーリン)重砲兵連隊の前面を守っていた歩兵部隊は須見大佐の部隊でしたが、すでに攻撃のために移動させられており、重砲兵部隊の前面はがら空きでした。
部隊長染谷中佐は最後の日時を絶筆に記入後観測所で自決。
砲兵たちは歩兵となってソ蒙軍に突入して行きました。
野戦重砲兵第一連隊も梅田少佐が自決し、砲兵たちはやはり歩兵となって突入して行きました。
ノロ高地付近でも長谷部大佐率いる守備隊が奮戦していたものの、すでに兵力の七割を失っておりました。
軍事上では三割の兵力を失えば、その部隊は“全滅”と言われます。
部隊としての戦力を失うからです。
長谷部部隊は“全滅”を二度やってもお釣りがくるほどの兵力を失っているのです。
長谷部大佐も後退を決断しなくてはなりませんでした。
26日夜、長谷部大佐は部隊を後退。
北東約4キロの749高地へ撤収しましたが、翌27日には749高地も撤収せざるを得なくなりました。
日本軍の両翼フイ高地とノロ高地は失われたのでした。
バルシャガル高地でも山県大佐の歩兵部隊と伊勢大佐の砲兵隊が頑張っておりましたが、28日夜、ついにこの二人も現在地を撤収して後退すると決断。
しかし、翌29日。
両部隊ともソ蒙軍に発見され、ついに散り散りになってしまい残った兵たちが最後の突撃を敢行。
山県大佐、伊勢大佐はともに自決という結果になってしまいました。
ここに至って第6軍はようやく各部隊をノモンハンに集結させるように命令を下します。
ようやく撤収命令が下ったのです。
日本軍の最後の部隊が撤収したのは8月31日でした。
山県隊、伊勢隊を救おうと、小松原師団長自らが部隊を率いて向かったのですが、ソ蒙軍に囲まれて孤立。
どうにか脱出したのが31日朝でした。
ソ蒙軍は追撃をしませんでした。
ジューコフはソ蒙側主張の国境線まで進出した後は部隊を停止させたのです。
日本軍はその線より東部に退いて再集結を計りました。
地獄の8月は終わりを告げました。
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- 2007/10/17(水) 21:24:19|
- ノモンハン事件
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