現地上部組織である第6軍の創設と前後して、参謀本部は関東軍司令部に対し、今までさんざん拒否してきたモンゴル領内のタムスク航空基地への越境爆撃を許可しました。
これはうがった見方をすれば、第6軍創設で関東軍に手を引かせる以上、その面子を立てて、かねてより申し出のあった爆撃をやらせてやろうと言う配慮があったのではないかと思え、事実関東軍司令部側には、いまさら何を言っているのだという空気が流れたこともあったようです。
実際、ノモンハン戦場上空での航空撃滅戦でへとへとになっていた関東軍航空部隊には、タムスク爆撃をしたくてもできない状況であり、それでも許可が出た以上はタムスク爆撃を行なおうという意思のもと、機材をやりくりしてのタムスク爆撃が8月21日に実行という手はずになっておりました。
8月中旬。
ノモンハンの戦場の外で情勢が動きます。
独ソ不可侵条約調印のための下準備が整ったのです。
スターリンとヒトラーが手を結んだことで、ソ連は西の脅威を一時的にも考えずにすむようになりました。
まさに全力を東に向けることができるようになったのです。
スターリンはGOサインを出しました。
ソ蒙軍司令官ジューコフが攻撃命令を下したのは、昭和14年(1939年)8月20日午前5時45分だったと言われます。
まず、大編隊の航空機による空襲から始まり、続いて2時間にもわたる無数の火砲からの砲撃、そして戦車と歩兵による強襲とまさに教科書どおりの攻撃でした。
8月20日は日曜日でした。
ソ蒙軍の攻撃があることをまったく察知できていなかった日本軍は、司令部である第6軍の将官から、各部隊の士官に至るまで、その多くが休日を楽しむために戦場を離れて後方のハイラルなどへ向かっておりました。
ジューコフはそこまで考えていたのです。
ソ蒙軍は両翼から包み込むように左右74キロにわたって広く広がっておりました。
日本軍陣地の正面幅が約30キロと言いますから、相当な広範囲にわたって部隊を展開していたことになります。
ソ連軍の圧倒的な攻撃に、日本軍の各陣地は甚大な損害を出しました。
しかし、高級将校の不在もソ蒙軍の空襲も砲撃も直接攻撃さえも、日本軍陣地を壊滅させるには至りませんでした。
頑強な日本兵は、すぐさま各陣地で応戦を開始、ソ蒙軍にも大きな損害を与えて行くのです。
各陣地はソ蒙軍の攻撃を必死に跳ね返しておりました。
しかし、差し渡し30キロの防御ラインというのはいかにも広すぎました。
日本軍は一個師団強の兵力でこの長大な陣地線を守っていたのです。
本来一個師団で守れる正面幅は約10キロ。
その三倍の長さを守ろうというのですから、各陣地の間にはふさぎきれない隙間がいくつもできることになります。
各陣地は確かに頑強で粘り強く、ソ蒙軍の攻撃を跳ね返して行きますが、その間をすり抜けられてはどうしようもなく、各陣地はソ蒙軍が後ろにまで回ってしまうのをなすすべなく見ているしかありませんでした。
陣地の後ろに回られるということは、陣地が包囲されてしまうということです。
陣地は本来は正面の敵と戦いながら、後ろからは補充の兵員や武器弾薬食料が滞りなく届けられなくてはなりません。
後ろにまで回られてはその補給物資も補充要員も届かなくなるのです。
包囲というのは、敵の物資増援を断ち、その部隊の継戦能力を奪うことなのです。
継戦能力を失った部隊はあっという間に武器弾薬が尽き、降伏するほかなくなるのです。
日本軍の陣地も各地で包囲され孤立する事態になりました。
北のフイ高地では井置中佐の部隊が包囲され、南のノロ高地付近でも大隊ごとの各部隊が孤立戦闘を続けている状態でした。
中央でも各部隊があちこちで包囲され孤立しています。
何とか連絡をつけ、孤立状態から救わねばなりませんでした。
ことここに至っても、関東軍司令部は現状判断に希望的観測が混じるのを避けることができませんでした。
ソ蒙軍が大挙攻撃してきても、補給途絶に苦しんだ挙句の自殺的強襲ではないかと考えていたふしがあるのです。
関東軍司令部はジューコフの欺瞞電文により、ソ蒙軍も補給に苦しんでいると思い込んでいました。
また自分たちの常識からもそうでなくてはおかしいと思い込んでいました。
ですから、この猛攻撃は一過性のものであり、各陣地も攻勢中止の後強化されているはずだから大丈夫と思い込もうとしたのです。
そのため、このソ蒙軍の攻撃はかえってこちらにとってありがたいことであり、逆激をもって一気にソ蒙軍を追い返せると喜んだぐらいでした。
それよりもノモンハン以外の場所でソ連軍が攻めてくるかもしれないという恐怖が、彼らを支配していたのでした。
しかし、翌8月21日には、日本軍の各陣地は絶望的状況に追い込まれていることがはっきりしてました。
そんな中、同盟国というよりもまさにそのために戦っているはずの満州国軍の一部が、指導の名の元に派遣されている日本軍将校を射殺。
部隊約200名がそっくり逃亡してしまうという事件まで起きました。
それほどまでに状況は悪化していたと言えるのでしょう。
22日、関東軍航空部隊は、以前からの計画通りにタムスクへの再度の空襲を行ないます。
攻撃は成功し、日本側10数機の損失でソ連軍機約100機近くを撃破したと言います。
事実だとすると大戦果でありますが、事実誤認だったのかソ連軍の航空戦力の充実が上回っていたのか、ノモンハン上空のソ連軍機の跳梁は変わりませんでした。
日本兵は果敢に戦いました。
しかし、以前とは違って戦車や装甲車が単独で日本軍陣地へ迫ることはなく、必ずソ蒙軍の歩兵が付随していたため、以前は効果を発揮した歩兵による火炎瓶や爆薬を使っての肉薄攻撃ができなくなってしまいました。
文献では、これはソ連軍戦車がガソリンエンジン車ではなくディーゼルエンジン車に変えたため、火炎瓶による攻撃が効かなくなったと書かれたものも多いのですが、どうやら歩兵のバックアップが付いたために肉薄攻撃ができなくなったというのが大きいようです。
ですが、そのような中でも兵士たちは懸命に部署を守り、陣地を守って斃れて行きました。
まさに死闘だったのです。
各所で陣地が孤立しソ蒙軍が浸透してくる中、22日になって日本軍は気が狂ったとしか思えない命令を発します。
第6軍司令部が危機に陥っている第23師団に対して、「主力をもってホルステン河南方の敵を捕捉撃滅する準備をすべし。攻撃開始は24日払暁を予定」という命令を発したのです。
各所で寸断され、孤立した各部隊が死に物狂いで戦っている時に、どこをどうしたら攻撃に転じることができるのか。
命令を受領した歩兵第26連隊連隊長の須見大佐は愕然として、第6軍の命令を鸚鵡返しにするしかない小松原師団長にこう言ったと伝えられます。
「私の部隊は師団命令により各所にバラバラに配備されましてとても攻撃に転じることはできません。陣地を守るだけで精一杯であり、私と部隊はそこで最後を迎えるつもりです。軍旗の処置も決めております」
事態はもうそこまで悪化していたのでした。
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ぜひぜひ皆様の作品をお寄せ下さい。
お待ちしております。
それではまた。
- 2007/10/14(日) 20:33:00|
- ノモンハン事件
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