第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により、戦車の保有を禁じられていたドイツは、トラクターの名目でひそかに戦車を開発します。
軽量、軽装甲、軽武装の非力な戦車ではありましたが、訓練用戦車としては申し分なく、また、砲塔(銃塔)に搭載された二丁の機関銃は歩兵や騎兵相手なら充分すぎる威力を持つことでもあったため、この軽戦車は一号戦車と名付けられて正式採用されました。
一号戦車は初期のドイツ軍にとっては、まさに主力と言ってもいいものでした。
ポーランド戦はおろか、フランス戦、北アフリカ戦までも使われたのです。
しかし、一号戦車はやはり安く軽く作られていたために、装甲がかなり薄いものでした。
前面装甲で13ミリしかなく、ポーランド軍の対戦車砲はおろか対戦車銃や重機関銃ですら撃ちぬけるものだったのです。
そのことはポーランドとの戦争開始前からドイツ軍でもわかっていたことでした。
重防御の陣地を迂回して後方遮断する電撃戦が、まだ机上のプランだった頃、戦車の役割は歩兵支援をしながら敵陣に突入するというものでした。
敵陣には機関銃どころか、対戦車銃や対戦車砲が備えられているのは自明の理です。
一号戦車の装甲では歯が立たないことはわかりきったことでした。
そこで1939年12月。
ポーランド戦で予想通り多数の損害を出した一号戦車の改良がクラウス・マッファイ社に命じられます。
これは改良というよりは、ほぼ新造とも言うべきもので、一号戦車にできるだけの重装甲を施すことがその目的でした。
トーションバーサスペンションに挟み込み型の転輪配置と角型のボディ。
後のティーガーにも通じる形の重装甲な戦車で、前面装甲厚はなんと80ミリ。
四号戦車が50ミリだった頃ですから、まさにティーガー(前面装甲厚100ミリ)並だったのです。
側面も50ミリと重装甲であり、大戦初期であればほとんどの対戦車砲では歯が立たなかったことでしょう。
武装は一号戦車の改良型ということで機関銃が二丁だけ。
この軽武装がこの戦車の弱点となってしまいます。
この重装甲でありながら軽武装の戦車は、一号戦車F型と命名され、正式採用されました。
しかし、完成したのは1942年の春。
この頃には独ソ戦も始まっており、ソ連軍のT-34に煮え湯を飲まされていた頃でした。
三号戦車も四号戦車も砲身を伸ばして重武装しようとしている時期に、機関銃二丁の戦車では使える場面がほとんど限られてしまいます。
結局30両が作られただけで、製造は終了してしまいました。
やはり完成が遅すぎたのです。
1939年に存在していれば凄まじい脅威となったことでしょう。
完成した一号戦車F型は、8両が実戦参加しており、ソ連軍に捕獲されちゃったりしております。
機関銃だけじゃつらかったでしょうね。
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それではまた。
- 2007/09/26(水) 21:03:53|
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