ハルハ河西岸に渡った部隊は、わずか半日で進退窮まってしまいました。
弾薬も食料もわずかしか持たず、水すら飲むことができない状況ではそれも無理ありません。
たった一本の訓練用の橋に全てを託すような行き当たりばったりの杜撰な計画がこの状況を生み出したのです。
前線に来ていた関東軍の辻参謀たちや、第23師団長小松原中将も遅まきながらそのことに気がついたようでした。
朝には勇躍出陣して行った部隊を、夕方には撤収させることにしたのです。
ハルハ河西岸での攻撃を中止し、東岸での攻撃に師団の全力を挙げる。
作戦はこのように変更されました。
7月3日午後4時。
西岸攻撃隊指揮官の小林少将は転進(進行方向を変えること。撤退では格好が悪いので、後ろに向かって前進するというごまかしを日本軍はよく行ないました)命令を受けました。
せっかく渡河をして西岸に進出したというのに、なすところ無く撤退というのはつらいものではありましたが、ソ蒙軍の戦車を相当数撃破したものの、弾薬が底をついた状況では仕方ありませんでした。
明けて7月4日午前0時。
ハルハ河西岸の日本軍部隊の撤収が始まります。
関東軍上層部が、敵は弱兵で戦意も低く、シベリア鉄道から離れているために大部隊は展開できないから、第23師団が行けば逃げるだろうという甘い見通しで始めた作戦だったため、わずかな食料と弾薬しか持たされずに西岸に放り込まれた兵士たちは、ついに撤収の憂き目を見ることになったのでした。
第71連隊と第72連隊が粛々と後退を始め、一番奥まで前進していた須見大佐の第26連隊がしんがりとなりました。
ソ蒙軍は日本軍の撤収行動に対し、幾度となく波状攻撃を仕掛けます。
そのたびに日本兵は断固たる反撃をして、ソ蒙軍に痛撃を与え組織だって撤退して行きました。
たった一本の橋も高射砲部隊が必死にソ連軍機の攻撃から守ります。
このおかげで、西岸攻撃隊は西岸に取り残されることなく、どうにか撤収することができました。
ソ蒙軍の執拗な攻撃を跳ね除け、最後の須見部隊が撤収したのは翌5日の朝でした。
日本軍のハルハ河西岸での攻勢はここに終結しました。
これ以後日本軍はハルハ河西岸に渡ることはありませんでした。
西岸から命からがら戻った兵たちも、安堵している間はありませんでした。
第23師団はこれ以後ハルハ河東岸での戦いに全力を挙げるのです。
各部隊には攻撃配置に着くよう命令が下りました。
戦場付近はわずかながら高低がありました。
西岸側が全体的に高く、東岸は西岸から見ると見下ろせる低地となっていました。
そのため、西岸に布陣したソ蒙軍の砲は日本軍を楽に砲撃できましたが、日本軍の方からはソ蒙軍の砲兵陣地が見えないという有様でした。
そのために、各部隊が移動を始めるとすぐにその周囲には砲弾が降りそそぎました。
各部隊は移動すらままならず、夜間に移動するしかありませんでした。
7月6日。
玉田大佐率いる戦車第4連隊を中心とする部隊に対し、ソ蒙軍の局所的反撃が行なわれました。
第4戦車連隊は周辺の部隊と協力して、よくこれを撃退したものの、11両の戦車が撃破されてしまいます。
すでに大きな損害を受けていた戦車第3連隊と合わせると、これで日本軍の戦車戦力はほぼ半減というものでした。
7月7日。
どうにかハルハ河東岸のソ蒙軍陣地に対する攻撃発起地点に布陣を終えた第23師団は、もはやこれしかないという日本軍のお家芸、夜襲による白兵戦を仕掛けることにします。
日露戦争当時となんら変わらぬ歩兵の肉薄攻撃が昭和になっても繰り返されることになったのですが、相手は日露戦争時のロシア軍ではありません。
ソ蒙軍は各所に縦深陣地を築き、各陣地が機関銃で相互支援ができるように配されています。
そういった、攻めるに難しいソ蒙軍の陣地に対して、日本軍の兵士は勇敢に攻め立てました。
血で血を洗うような近接戦闘が続き、ソ蒙軍もさすがにじりじりと後退を余儀なくされていきます。
日本軍はこの夜襲をもって、ソ蒙軍と互角以上の戦いを繰り広げるのでした。
前線の将兵が死に物狂いで上層部の不手際を取り戻そうと戦っているというのに、関東軍上層部ではまたしてもわけのわからないことが行なわれていました。
満州全土でのこれからのことを考えたとき、このノモンハンでこれ以上戦車を失ってしまうのは問題があると考えた関東軍司令部は、なんとこの激戦の最中に戦車第3連隊及び戦車第4連隊を引き上げる命令を発します。
もちろん、そんな命令は承服できないとして、戦車団の指揮官たる安岡少将は反発しますが、戦場と関東軍司令部がすったもんだした挙句、引き上げ命令こそうやむやになったものの、後方待機状態となり、以後第23師団は戦車の援護を受けられなくなりました。
7月7日から14日まで、日本軍はひとえに歩兵の粘り強い夜襲白兵戦によりじわじわとソ蒙軍を追い詰めて行きました。
ソ蒙軍も戦車と砲は日本軍より多かったものの、歩兵戦力については劣勢だったこともあり、日本軍の夜襲にはかなり手を焼いておりました。
日本軍が夜奪ったソ蒙軍の陣地を、翌日の日中に戦車と砲撃、航空支援によってソ蒙軍が取り戻す。
そんな激しい戦いが連日続きました。
日本軍の大隊長、中隊長の死傷者も続出しましたが、ソ蒙軍も7月11日にはヤコブレフ少将のような高級指揮官が戦死するほどの損害を出しておりました。
戦いは一進一退でした。
その17へ
さてさて「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませー。
それではまた。
- 2007/09/17(月) 20:46:10|
- ノモンハン事件
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