明けて昭和14年(1939年)7月2日。
第23師団は、ともかくも訓練用であろうがなかろうが渡河用資材には違いないので、それを使ってハルハ河に橋を架けることにします。
そのための下準備として、ハルハ河東岸攻撃隊も西岸攻撃隊も所定の位置に着くべく移動を開始しました。
東岸攻撃隊の中核となる安岡戦車隊はエンジン音と履帯の軋みを響かせて前進。
第23師団の将兵はまさに意気揚々として攻撃位置に向かいます。
夜7時過ぎ、夜陰にまぎれて渡河を行なうため、西岸攻撃隊は渡河地点に進出します。
豪雨の中、架橋工兵たちが広い平原のため目標を見失い、迷った挙句に到着するというアクシデントはあったものの、日本軍は夜半には渡河の準備にかかりました。
一方、東岸攻撃隊は折からの豪雨に夜襲を敢行。
これは偵察機による報告がソ連軍は撤退中というものであり、すぐに追撃しなくてはならないとされたためといわれます。
たぶんに作為的な偵察報告だったのではないでしょうか。
豪雨と雷の中、戦車を中心とした東岸攻撃隊は、ソ蒙軍の第一線陣地及び第二線陣地までを突破。
奇襲を受けたソ蒙軍は攻撃正面では多大なる損害を出して後退し、第三線陣地まで迫られるほどでした。
しかし、ソ蒙軍が後退中であるというのは誤報であること、さらにはソ蒙軍の陣地が予想以上に手強く、速射砲などによる戦車の損害も侮れないことがわかります。
翌3日の西岸攻撃隊との共同攻撃は厳しいものになると予想されました。
西岸攻撃隊は藤田少佐の一個大隊を架橋援護のために折りたたみのベニヤ舟で対岸に渡します。
対岸では日本軍の渡河に驚いた外蒙騎兵との小競り合いがありましたが、外蒙騎兵は程なく後退。
日本軍は鉄舟で連隊主力を渡河させ、明け方に完成した橋で後続部隊を渡す手はずを整えます。
いよいよ両岸からの一大攻勢の準備が整いつつあるように思われました。
7月3日。
西岸攻撃のための渡河は思うほどはかばかしくありませんでした。
理由は至極単純でした。
橋が一本しか無いからです。
しかも訓練用の簡易な橋であるため、雨で増水したハルハ河の流速に耐えられず、中央がぐんと下流側に押された弓状になっていました。
そのため、日本軍の部隊は徒歩で橋を渡るしかなく、自動車化部隊であった歩兵第26連隊はトラックを降りて渡らねばなりませんでした。
野砲は馬に引かせるわけには行かず、馬を一頭一頭渡した後で人力で運ばなければなりませんでしたし、トラックは積んである物資どころか、燃料タンクの燃料まで抜かなければ渡ることはできなかったのです。
日本軍渡河の情報を得たジューコフは、直ちに反撃を命じました。
橋頭堡を確保され、東岸部隊が切り離されることを恐れたのです。
このため、ソ蒙軍は手近にある兵力を次々と西岸攻撃隊に向けて投入してきました。
すでに渡河を終えた岡本大佐の歩兵第71連隊と酒井大佐の歩兵第72連隊は、ソ蒙軍の砲兵陣地を目指して南下中でした。
その二つの連隊に、ジューコフの指示でかき集められた兵力が突入してきます。
午前中の戦闘は、とにかく日本軍を食い止めようとしたソ蒙軍が、歩兵と戦車の連携を欠いたまま戦車単独で日本軍に攻撃を仕掛けてきました。
歩兵の援護なくしての戦車単独の攻撃はソ連赤軍も戒めるところではありましたが、日本軍を食い止めるためにはやむを得ないと判断したのかもしれません。
ですが、やはりこの攻撃は無謀でした。
確かにソ蒙軍は50両以上の戦車及び装甲車をもって攻撃をしてきたのですが、来襲を知って適切に布陣した日本軍の速射砲と歩兵が反撃。
後の独ソ戦でも装甲の薄さで早々に第一線を退いたBT-5及びT-26などの戦車、BA-6などの装甲車は近距離からの砲撃と、火炎瓶を持った日本兵の肉薄攻撃の前に次々と撃破されました。
ガソリンエンジン搭載のソ連軍車両は、火炎瓶攻撃には意外なほどもろく、戦場には炎上するソ連軍戦車があちこちに骸を晒すことになったのです。
しかし、このソ蒙軍の攻撃により、日本軍は前進を阻まれました。
途切れなく投入される戦車に、各所で陣を敷き対戦車戦闘に忙殺されることになったからです。
確かにソ連軍の損害は大きなものでした。
この日のハルハ河西岸だけで100両以上もの戦車と装甲車を失う羽目になったのです。
ですが、日本軍の前進を止めることには成功したのでした。
一方ハルハ河東岸では、逆に日本軍の戦車隊が痛撃を受けておりました。
西岸攻撃隊と呼応するべく進撃を開始した戦車第3連隊と第4連隊でしたが、東岸に布陣したソ蒙軍の正面からの攻撃となってしまいます。
ハルハ河西岸や東岸の砲兵陣地からの砲撃により、戦車隊とともに進撃してきた歩兵たちは続々と損害を出してしまい、やむなく戦車第3連隊長吉丸大佐は、戦車単独での攻撃に切り替えました。
この戦車単独での攻撃が無謀であるのは、ソ蒙軍の戦車攻撃を見ても明らかです。
吉丸大佐率いる戦車第3連隊は、各所からの対戦車砲の砲撃と、履帯に絡まり動きを止めてしまうピアノ線鉄条網と、東岸に配置されていたソ連軍戦車の集中攻撃を受け次々と破壊されました。
吉丸大佐自身もこの攻撃により戦死してしまいます。
日本軍は突進をあきらめるほかありませんでした。
わずか半日、7月3日の午前中で関東軍司令部の描いた作戦構想は画餅と化しました。
逃げるソ蒙軍を追尾するどころか、逆襲をこらえるのが精一杯になりつつあったのです。
東岸攻撃隊の主力である戦車部隊は、第3戦車連隊がほぼ戦闘力を喪失。
戦車第4連隊はまだ健在でしたが、数の上で圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまいました。
加えて歩兵の損害も大きく、これ以上の攻勢をとろうにも取れない状態でした。
西岸攻撃隊も状況は似たり寄ったりでした。
ソ蒙軍の戦車を多数撃破したことで士気は旺盛でしたが、食料弾薬に乏しくなってきた上、ソ蒙軍が攻撃を突入ではなく包囲しての砲撃に切り替えてきたため、各所で歩兵が砲撃で倒されていく事態になったのです。
夏の日差しが照りつける戦場はまさに灼熱地獄でした。
関東軍の将兵を悩ませたのはこのための水不足でした。
水筒の水はとっくに無くなり、補給のあても無い。
彼らは水無しで戦わねばならなかったのです。
ハルハ河にはたった一本の訓練用の橋しかありません。
しかも、それを使って物資を送ろうにも、馬もトラックも使えません。
さらにソ連空軍機がこの橋を目標として攻撃をしてきます。
西岸攻撃隊の命運はこのたった一本の脆弱な橋が握っていたのです。
その16へ
さてさて「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませー。
それではまた。
- 2007/09/11(火) 20:43:45|
- ノモンハン事件
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