関東軍は楽観的に過ぎました。
日本軍が戦場に到着しつつある今、またソ蒙軍はハルハ河を超えて撤収するのではないか?
いや、すでに撤収中ではないのか?
そんな憶測すら飛び、偵察機の報告もソ連軍撤収中と伝えてくる始末。
これは事実誤認だったといわれるが、関東軍司令部の第23師団に対しての督戦だったかもしれません。
戦場に到着した第7師団よりの増援である歩兵第26連隊長である須見新一郎(すみ しんいちろう)大佐も、到着早々に第23師団の参謀長より「ご苦労様です。とにかく須見さんは出張ってくれさえすれば、金鵄勲章がもらえるように手はずをつけますよ」と言われたと言います。
戦場全体にソ蒙軍を見下している気配が漂っていたのでした。
第23師団の作戦は以下の通り。
第23師団のうちから歩兵第71連隊及び第72連隊、それに第7師団より派出された第26連隊を中心とした兵力に、師団捜索隊と野砲兵第13連隊が加わったものを小林少将が率いてハルハ河を渡河。
西岸に布陣するソ蒙軍の砲兵陣地を撃滅して、西岸側からハルハ河東岸に布陣したソ蒙軍の退路を断たせます。
一方、戦車第3連隊及び戦車第4連隊を中心に、歩兵第64連隊及び野砲兵第2大隊が支援する東岸攻撃隊が、ハルハ河東岸に布陣する越境ソ蒙軍を攻撃、追い立てられたソ蒙軍を追撃しつつハルハ河とホルステン河の合流点川又に追い込んで、そこで西岸攻撃隊と挟み撃ちにして撃滅するというものでした。
これは、先ごろ関東軍司令部が立てた作戦をそのままなぞったものであり、違うといえば、最初西岸に渡る予定だった第7師団が来なくなったため、西岸に渡河する部隊も第23師団の歩兵部隊ということになったぐらいでした。
第23師団は、本来はハルハ河西岸に対する攻撃には、戦車を中心とした攻撃力の大きい戦車連隊を使うつもりでした。
関東軍もそのつもりでしたし、そのためにわざわざ関東軍の虎の子の安岡(やすおか)中将指揮下の第一戦車団から安岡中将直卒で戦車第3連隊と第4連隊がこの場に駆けつけたのです。
しかし、戦車第3連隊も第4連隊もハルハ河西岸への渡河攻撃部隊には配属されませんでした。
渡河するための橋が問題だったのです。
河に橋を架けたりするのは工兵隊の役割でした。
工兵とは陣地構築をしたり、地雷を埋設や除去したり、橋を架けたり妨害物を爆破したりする重要な兵士たちです。
このノモンハンの戦場にも、連隊長斉藤(さいとう)中佐率いる工兵第23連隊がやってきておりました。
彼らはこのハルハ河を渡河するための橋を架ける任務を言い渡されたのです。
ところが、工兵第23連隊には軍用架橋のための資材がありませんでした。
支那事変に物資を取られていた関東軍には、架橋用資材すら払底していたのです。
そのため、斉藤中佐がどうにか手配できていた訓練用の架橋資材で橋を架けることになりました。
訓練用ですから、重量物を渡せるようなものではありません。
戦車など渡れるはずが無かったのです。
やむを得ず、西岸へは歩兵が渡ることになりました。
戦車は東岸攻撃に回されました。
これは作戦などと呼べるものではありません。
行き当たりばったりの軍事行動でした。
昭和14年(1939年)7月1日。
第23師団は行動を開始します。
長距離の行軍を経てきた兵士たちでしたが、士気は一様に高く、味方の多さと戦車の頼もしさに必勝の思いがみなぎっていました。
夜半からの行軍は日が高くなっても続き、シャクジン湖という湖の付近で最初の会敵がありました。
日本軍の行動開始に対処するべく、ソ蒙軍側も慌てて戦車十数両を中心とする戦力を振り向けてきたのです。
ですが、この戦闘は日本側の速射砲などがソ連側戦車を数両撃破して追い払い、近くにあるフイ高地(721高地)を確保。
初日の戦闘は終わりを告げました。
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- 2007/09/07(金) 19:58:36|
- ノモンハン事件
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