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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

ノモンハン11

スターリンはヨーロッパとともに極東にも脅威を感じておりました。
そのため、日本に支援された満州国による度重なる挑発行為は、本格的な戦闘の前触れとなりかねないことも感じておりました。
折りしも日独伊三国同盟についての動きが活発化している中、独日との二正面作戦を行なわなければならない可能性も考慮しなくてはならなかったのです。

スターリンはこの際一度日本軍を叩いておくことも必要と考えます。
ノモンハンでの国境紛争に対し、ソ連軍の全面的支援が命令されました。

昭和14年(1939年)5月17日。
東捜索隊が引き上げたハルハ河東岸に、再び外蒙軍が布陣します。
前回の60に対し、今回は約300人の軍勢でした。

小松原師団長は外蒙軍の再度の越境に断固対処することにしました。
今度こそ外蒙軍に一撃を加えて膺懲してやるのだと意気込んだのです。
その外蒙軍をソ連軍が支援していることも、ソ連空軍がノモンハン上空を跳梁し、関東軍航空部隊と空戦を繰り広げていることも無視されました。

小松原師団長は第23師団所属の第64連隊第3大隊を中心として、連隊砲中隊と速射砲中隊の山砲と速射砲を3門ずつ、それに先日出動した東捜索隊と満州国軍騎兵部隊を加え、それを支援する輜重部隊(補給担当)を合わせて約2000名の兵力を派遣します。
指揮を取るのは第64連隊長山県武光(やまがた たけみつ)大佐でした。

5月23日。
山県大佐の支隊はノモンハンへ向けて出動。
小松原師団長はそのことを関東軍司令部へ報告します。
しかし、報告を受けた関東軍司令部は意外にもこの山県支隊の派遣は時期尚早だと考えました。
「満ソ国境紛争処理要綱」にもあるがごとく、一気に敵を殲滅するためには敵軍を満州国内に誘致し、それから大兵力で殲滅する考えだったのです。
外蒙兵300程度が越境してきたぐらいでは、静観をする方針でした。

関東軍司令部の考えを知らされた小松原師団長は、逡巡した挙句に山県支隊をカンジュル廟というラマ教の拠点がある場所で待機させました。
ここで関東軍司令部がさらに撤収を指示していればこの後の悲劇は防げたかもしれません。
しかし、5月24日、関東軍司令部は以下のような命令を発します。
「カンジュル廟に兵力を出したからには、速やかに目的を達して帰還すること」
つまり、一戦交えるなり何なりして外蒙軍を追い払い帰還せよとのことです。
山県支隊の派遣は認められたのでした。

山県支隊のこの一時待機はソ連軍に貴重な時間を与えてしまいます。
ソ連軍工兵部隊が、ハルハ河に橋を架けてしまったのです。
これでソ連軍は兵力を自由に渡河させることができるようになりました。
BA-6型装甲車(当時の装甲車としては桁違いの45ミリ砲を搭載)を始めとする装甲車39両などソ連軍機械化狙撃兵大隊(ソ連軍は歩兵を狙撃兵と呼びました)を中核とした約1400名ほどの戦力が、有力な火砲の支援の下ハルハ河東岸に布陣して、山県支隊を待ち受けることになったのです。

その様子を山県大佐は薄々は知っていたようです。
しかし、彼は逆に意気盛んでした。
ソ連軍も出てきているということは、今度は簡単には逃げないだろう。
だとしたら大いに手柄を立てるチャンスだ。
そう考えてでもいたようでした。
何せ彼は、同行していた新聞記者に面白いことが見られるよとまで言っていたのです。

5月28日。
山県大佐は部隊を三方に分け、ハルハ河とホルステン河の合流点(日本軍は川又と呼称)付近に敵を包囲するべく攻撃を開始します。
中央と左翼を山県支隊が、右翼を東捜索隊が受け持ち、それぞれ払暁より各個に攻撃を開始。
東捜索隊は持ち前の機動力を生かして川又近辺まで進出、そこで逃げてくる敵を包囲する役目を受け持っていました。

幸い東捜索隊はさしたる抵抗を受けることなく川又付近まで進出します。
しかし、そこは敵陣のど真ん中でした。
以後、東捜索隊は山県支隊主力と切り離されたまま、絶望的戦いをすることになります。

山県支隊主力も夜の闇の中で展開したため、自隊の位置も不明のまま各所で戦闘に入らざるを得ませんでした。
日本軍の小隊中隊がソ連軍と苛烈な戦闘に入る中、東捜索隊もソ連軍の猛攻を受け円陣を組んだまま兵力を減らされていきました。

装甲車に支援されたソ連兵に対するに、日本兵は肉弾で対処するより仕方ありませんでした。
対戦車砲も自軍の戦車も無く、歩兵は手榴弾で何とか撃退しなくてはならなかったのです。

5月29日。
山県支隊とは連絡の取れぬまま、東捜索隊は食料も弾薬も無く、午後7時ごろ壊滅します。
敵中に孤立し、わずか200名ほどのこの捜索隊は二日間も粘ったのですが、ついに援軍は到着しませんでした。
それどころか、山県支隊も非常に危うい状況でした。
ソ連軍の火砲と装甲車によって、各所で日本兵は蹂躙されていたのです。

しかし、山県支隊の苦戦も東捜索隊の壊滅も師団長たる小松原中将は知りませんでした。
無論関東軍司令部も知りませんでした。
ですから、関東軍司令部からは、「貴隊の赫々たる戦果を慶祝す」などという電報が小松原師団長の元に届けられ、小松原師団長は山県支隊に宛てて、もう充分敵を痛めつけただろうから28日をもって作戦を終了、集結せよとの無電を送っているのです。
なんというバカな話ではありませんか。

29日になって小松原師団長は慌ててハイラルより第71連隊第2大隊を中核とする部隊がノモンハンに投入されます。
ソ蒙軍は日本軍が増援を出してきたことを知るといったん後退。
ハルハ河西岸へ引き上げました。

5月31日。
日本軍は手痛い損害を受け、東捜索隊の遺体を収容して戦場を離脱。
第一次ノモンハン戦は自然集結となりました。

辻参謀は敗因を第23師団が新設であるゆえの相互支援の不備によるものと片付け、それにしてもと続けます。
「外蒙軍にあれほどの戦車装甲車があるとは思わなかった・・・」

東捜索隊の損耗率は63%。
220人中139人が戦死傷しました。
完敗でした。

その12へ
  1. 2007/08/23(木) 20:55:16|
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