1でも書きましたが、満州国がモンゴル(外蒙古)と接する満州国北西部突出部、その南側に位置するのがノモンハンでした。
ノモンハンというのはもともとはラマ僧の役職名だったそうです。
最高位のフトフクに次ぐものであり、このあたりにラマ僧の墓があったことから地名になったものらしいです。
このあたりは草原と砂丘が続くなだらかな丘陵地帯で、いわゆる草の海とも言うべき広大な平原です。
その中にノモンハンという集落があり、地域一帯がホロンバイルと呼ばれておりました。
夏のノモンハンは膝丈の草が生い茂り、いい牧草となったため、牧畜を主とする蒙古人がヒツジなどを連れて放牧しながら移動するそんな場所でした。
ホロンバイルの中をハルハ河という河が流れており、そこから分かれた支流のホルステン河がノモンハンの付近を流れています。
このあたりにはホロン湖やボイル湖などいくつかの湖沼がありましたが、そのほとんどは塩水湖であり飲用には適しません。
一方ハルハ河やホルステン河は真水であり、人間にも家畜にも貴重な水として重宝されておりました。
つまり、広大な草の砂漠の中では、ハルハ河やホルステン河以外では真水は手に入れることが非常に困難だったのでした。
このホロンバイルの中を満州国とモンゴル(外蒙古)の国境線が走っていたのですが、この国境線が不明瞭でした。
もともとこのあたりは、蒙古人の遊牧民が家畜を連れて移動していたので、境界という概念が希薄でありましたが、ソ連及びモンゴルと満州国及び日本の国境線の認識がずれていたことも大いなる問題の一つでした。
これはもともとソ連とモンゴルは、中国(清朝)との国境線はハルハ河より東側約十五キロ乃至二十キロ離れた地点を結ぶ線としていたのに対し、中国(清朝)側はハルハ河中間点を国境として認識していたということが発端でした。
清朝より独立したという形の満州国としては、当然ハルハ河が国境線だと信じていましたし、関東軍もそれを信じて疑いもしませんでした。
国境が河よりも東側にあるとは夢にも思わなかったのです。
モンゴル人民共和国(日本側呼称外蒙古)は1924年(大正13年)に独立しておりましたが、ソ連型の社会主義国を目指しており、ソ連とは切っても切れない関係にありました。
自国軍も持ってはおりましたが、関東軍を中心とする満州国の軍事力には抗しえるはずも無く、ソ連軍の駐屯を認めて防衛を共に行なっておりました。
いわば、衛星国家だったのです。
もともと国境という概念が希薄な上に、家畜の移動に連れて移動する遊牧民が、ハルハ河を超えてノモンハン方面に草場を求めてくるのはある意味当たり前でした。
しかし、そこ(ハルハ河)は満州国にとっては国境です。
ハルハ河を超えることは無断越境に他なりませんでした。
ノモンハンの集落には、満州国の国境警察分駐所が置かれ、満州国警察が不法越境を厳しく取り締まることになったのです。
最初は遊牧民を威嚇程度で追い払っていたものが、やがて遊牧民の護衛に外蒙(モンゴル)兵がくっついてくるようになると、小銃の撃ち合いなどが行われるようになりました。
こうしてこのノモンハン周辺でも、国境紛争が頻発するようになります。
昭和14年(1939年)5月4日。
外蒙兵がバルシャガル高地(ハルハ河を超えノモンハン集落に近い丘)を偵察中とのことで、満州国国境警察がこれを攻撃。
幾人かを捕虜にします。
5月10日。
ハルハ河を東西に渡る渡河点付近を警備中の満州国国境警察隊に対して外蒙側から射撃を受け応戦。
これは外蒙側から見れば、満州国国境警察による不法越境に対し攻撃したということになります。
5月11日。
この日も満州国国境警察と外蒙軍との間に衝突があり、外蒙側に死傷者が出る事態となります。
5月12日。
度重なる満州国国境警察の不法越境(と外蒙は考える)に業を煮やした外蒙軍は、約60名の兵力で越境攻撃(と満州国は考える)をしてきました。
ことここに至り、満州国国境警察は上部組織であるハイラルにある満州国軍第十軍管区司令部に通報。
満州国軍は直ちに応戦の準備を整えると共に、外蒙兵越境の事実を関東軍の第23師団に通報いたします。
関東軍に派遣されていた日本陸軍第23師団は、ホロンバイルを含む満州国西北部方面の防衛担当であり、当然ノモンハン近郊の外蒙軍の越境に対処する担当となるのです。
日本陸軍第23師団は九州熊本を中心とした地域の人々によって1938年(昭和13年)に編成されたばかりの新しい師団でした。
さらには、従来の師団が歩兵連隊を四つ持つのに対し、連隊が三つで編成される多少小型化された師団でもありました。
そのため、関東軍でも新編師団としてその戦闘力にはまだまだ信が置けないと考えられてもいました。
おそらく、対ソ連との直接対決となるソ満国境は荷が重い。
そう考えられて、直接ソ連と接しないこの満州国西北部方面に回されていたのです。
満州国軍の報告を受けた第23師団司令部は、最初満州国軍に任せて静観の構えを取りました。
しかし、日本軍が満州国軍を見捨てるのかという訴えに、師団長の小松原道太郎(こまつばら みちたろう)中将も師団の出動を命じます。
ノモンハンの悲劇が始まってしまいました。
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- 2007/08/14(火) 19:09:02|
- ノモンハン事件
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