「満州事変」によって成立をみた「満州国」ではありましたが、国際社会はその以前に満州事変が中国に対する日本の侵略であるかどうかについて調査を始めておりました。
具体的には国際連盟による調査団の派遣でした。
英国のロバート・リットンを団長とし、ほかに米、仏、独、伊の各団員からなる調査団は国際連盟によって派遣されたのですが、意外なことに調査団の派遣そのものは日本の提案でなされたものでした。
これは、関東軍の謀略によって国際的な信用が失墜していた日本として、国際社会に配慮していることをアピールする目的もあったでしょう。
しかし、より一層の目的としては、調査団が調査をし何らかの報告が出るまでは、日本に対して国際的な決議は行なわれないはずであり、その時間的猶予のうちに満州国を独立させて既成事実化しようと目論むものでもありました。
実際、リットン調査団の調査終了後、報告書の提出される前というタイミングで満州国は日満議定書を交わし、日本は満州国を承認しているのです。
昭和7年(1932年)10月に提出されたリットン調査団の報告書は、10章からなるもので外務省が翻訳したものはなんと289ページにも及ぶものでした。
その内容としては、柳条湖事件以後の日本軍の行動(いわゆる満州事変)は、中国の行為に対する自衛行動とはとても言えず、また満州国も中国人民の自由意志に基づくものではないため、日本の行為は侵略であると断定したものでした。
しかし調査報告書は、日本の行為は自衛行動をはるかに越えるものではあるものの、その根底には中国の排日反日行為があり、その中国側の行為に何より苦しんだ日本が、半ば自暴自棄的に侵略行為に及んだことも否定できないとして、中国側にも大きな責任があると断じてもいたのです。
これは、日本の主張で調査団の構成メンバーを当時の大国に限定したため、植民地支配という利害関係を持つことから、日本の主張もある程度は汲んでやろうという意志が働いたもののようでした。
この報告書を受け、国際連盟は満州問題に対して次のような提案をします。
満州事変以前の状況へ戻すことも、満州国を存続させることも日中双方にとって受け入れられない以上、満州から相互の兵力を撤兵し、国際機関によって管理する自治区とするというものです。
対外的には日中ソ三国による相互不可侵条約により国境を保全され、国内的には外国人指導の下による特別憲兵隊を置くことで管理し、行政も外国人顧問が広範囲に指導するというもので、外国人顧問の数に関しては日本人の割合を多くすることで充分に考慮するという、日本に配慮した提案だったのです。
しかし、日本はもう日満議定書の取り交わしなど満州国を完全に承認する旨を発表しており、この案は受け入れられないと突っぱねます。
日本国内にも満州国の承認は日本にとって不利なことばかりと考える人々もいましたが、軍主導によるマスコミのコントロールなどにより、日本国内はもはや満州国は日本と一体であるという気分が醸成されてしまったのでした。
結局国際連盟との間に妥協は成立せず、昭和8年(1933年)2月24日、日本代表松岡洋右(まつおか ようすけ)は国際連盟議場を退場。
日本は国際連盟を脱退し、孤立化を深めていくことになりました。
関東軍にとっては日本や世界がどうあれ、満州国というソ連に対する防壁ができたことは多いに喜ばしいものでした。
もともと陸軍は、日露戦争以後主たる敵はソ連であるとの認識を持っておりました。
その点、主たる敵をアメリカと定めた海軍とはすでに向いている方向からして違っていたのです。
日満議定書の取り決めによって、満州国に対する関東軍の影響力は絶大なものがありました。
もともと関東軍が作った国家ですから、関東軍がどのようにでもできたと言っても過言では無いのです。
関東軍司令官は、本来なら日本政府が任命するはずの特命駐満全権大使と関東庁長官を兼ねることとなり、関東軍の満州における駐兵権や関東軍司令官による満州国官吏の任免権、鉄道を始めとする陸海空の交通の管理権、国防上重要とみなされる鉱山の設定権など、満州国は関東軍が政府だったと言っていいでしょう。
こうして、「満蒙は日本の生命線である」という掛け声の下、弱体な満州国軍(日本人以外の満州国内居住の住民によって編成。日本人は満州居住でも軍に入るなら関東軍に入ることになる)を補佐し、広大な満州国(日本の約三倍の国土)を防衛するため増強の一途をたどります。
関東軍とソ連軍が国境をはさんで向き合う形が出来上がったのでした。
その6へ
- 2007/07/27(金) 20:33:26|
- ノモンハン事件
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0