今から66年前の1941年6月22日午前3時、ドイツ軍を中心にした枢軸軍約350万が、ソ連領内へ一斉に雪崩をうって攻め込みました。
「バルバロッサ作戦」の開始です。
作戦当初、破竹の進撃を続けるドイツ軍でしたが、補給や地形、その他さまざまな要因によって進撃は鈍り、ついにモスクワへは到達できなかったのですが、この作戦名「バルバロッサ」というのは、ドイツの前身と言っていい神聖ローマ帝国の一人の皇帝のあだ名から取られました。
イタリア語で赤ひげを表わすバルバロッサ(赤ひげ王)と呼ばれた神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世。
彼にあやかってつけられたのです。
フリードリヒ一世は、叔父であったコンラート三世による指名を受け、1152年に神聖ローマ帝国皇帝の地位に着きます。
当時神聖ローマ帝国内では、混乱が続いており、彼はその混乱を沈めるために尽力しました。
その後、イタリアにおける政策でローマ教皇と対立。
幾度となくイタリア遠征を行ないます。
しかし、それは帝国内に不満を増大させ、さらにローマ教皇より破門されると言う事態を招くことになり、1176年のレニャーノの戦いでの敗北で講和を余儀なくされました。
しかし、その後は国内政策に重点を移し、ポーランドの属国化やオーストリアの公国化などに業績を上げます。
1189年、数ある十字軍の遠征の一つ第三回十字軍の第一陣として、フリードリヒ一世は軍勢を率いて進発。
セルジューク朝の首都イコニウムを陥落させるなど、軍事的大勝利を得ましたが、1190年6月10日、サレフ川で水浴中に溺死。(暗殺説などいろいろな異説あり)
フリードリヒ一世の軍勢はあっという間に四散してしまいました。
ヒトラーは、おそらくソ連侵攻軍を十字軍として、セルジューク朝の首都を落としたフリードリヒ一世にあやかりたかったのでしょうが、何となく、その最後のあたりまであやかってしまったような気がするのは私だけでしょうか。
それではまた。
- 2007/06/22(金) 21:19:21|
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バルバロッサ、第2次大戦の独軍スキーにとっては、なんとなく期待感と高揚感のする固有名詞ですよね(笑)。
よきにつけあしきにつけ、色々な逸話・伝説を残した戦闘の作戦名として。
仰られてるように、古の王の業績にあやかりたかったのはわかりますけど、悲劇的結末まであやからなくてもねえ(苦笑)。
もうちょっと験を担ぐってことは出来なかったのかなあと思いますね。
で思うんですが、ドイツ語のこういう作戦名って、カッコよいのが多いですよね。
「バルバロッサ」「ブラウ」「ツィタデレ」、「ゼーレーヴェ」辺りは訳すと「あしか」なんで微妙にかっこ悪いですが(笑)。
もしかして作戦名は内容よりも響きのよさで決めてたのかも?なんて。
- 2007/06/22(金) 22:07:13 |
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- 空風鈴ハイパー #-
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>>空風鈴ハイパー様
やはり史上最大の作戦と言ってもいいでしょうからね。
双方合わせて600万人が戦闘に参加したというのは凄まじいです。
作戦名はドイツの場合色が多いですよね。
ポーランド侵攻が「白」
フランス侵攻が「黄色」
ソ連侵攻の「バルバロッサ」は赤をイメージしてますし、翌年の「ブラウ」はそのまま青ですね。
そう考えると「ツィタデル(城塞)」や「ゼーレーヴェ(アシカ)」の方が異色かも。
- 2007/06/23(土) 21:48:53 |
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- 舞方雅人 #-
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