「U-505」は艦長こそ失いましたが、艦そのものは健在でした。
そこでドイツ海軍は艦長自殺などの不幸続きだった「U-505」を何とか厄払いしようと言うことで、ランゲ予備大尉(中尉とも)を潜水艦隊司令のデーニッツ提督自らが送り込みます。
ランゲ艦長の指揮の下、新たな気持ちで航海に出た「U-505」は、味方艦の乗員救出などに携わったのち、再び大西洋へと赴きました。
その頃、ようやく大西洋での対Uボート戦に余裕を持ち始めていた米海軍は、船団輸送に護衛艦をつけるだけではなく、護衛空母を中心とした対潜機動部隊を編成し、逆にUボートを狩るハンターキラー作戦を展開するようになっておりました。
カサブランカ級護衛空母「ガダルカナル」を中心とした対潜機動部隊もその一つで、「ガダルカナル」艦長のギャラリー大佐の指揮の下、Uボートの捜索を行なっておりました。
ギャラリー大佐の下には暗号解読でもたらされた情報から、カーボベルデ周辺の海域でUボートが活動しているということを知っており、今回はその近辺でUボート狩りを行なうと同時にある計画を実行しようと考えておりました。
その計画とは、無傷でUボートを鹵獲することだったのです。
航空機の登場以後、潜水艦にとっての最大の脅威は航空機でした。
当時の潜水艦が商船を攻撃しようとするぐらいの深度では、上空の航空機からはほぼ丸見えでした。
そのため、航空機はUボートのいる位置をすぐに察知し、攻撃を加えることも味方艦を誘導することもたやすいことだったのです。
それでも第二次大戦前半は、英国本土や他の航空基地から離れた大西洋の中央付近では航空機の航続距離が足りずに飛んでくることのできない海域があり、そこではUボートが航空機の心配をすることなく商船攻撃を行えました。
しかし、アメリカが参戦すると、その巨大な工業力は商船護衛のための護衛空母を多数送り出してきており、船団には護衛空母の艦載機が空からUボートを警戒するようになりました。
つまり大西洋の真ん中であっても、護衛空母がいればUボートは航空攻撃を受けるようになってしまったのです。
そのため、Uボート乗員の間では士気の低下が激しくなり、航空攻撃に限らず攻撃を受けたUボートは、船体の損傷がまだそれほどひどくないにもかかわらず、浮上して乗員が脱出したあと自沈すると言う事例が多くなってきておりました。
ギャラリー大佐はその事例に鑑み、自沈する前にUボートを鹵獲してしまおうと考えたのです。
とは言うものの、Uボートの捜索は思うように行かず、燃料も乏しくなってきたため今回は空振りかと港に戻ることをギャラリー大佐は決断しました。
このとき、ほんのちょっとの偶然さえあれば、「U-505」は彼らと出合うことはなかったかも知れません。
しかし、運命のいたずらか、1944年6月4日、護衛空母「ガダルカナル」機動部隊は、Uボートと思われるものと接触したのです。
ギャラリー大佐は直ちに上空にいた直援機をその場に向かわせ、さらに艦載機を発進させます。
「ガダルカナル」の護衛に当たっていた護衛駆逐艦も向かわせ、そのUボートを捕獲するよう指示を出しました。
「ガダルカナル」の艦載機と護衛駆逐艦は連携して「U-505」を攻撃します。
F4F戦闘機が「U-505」の潜航している海面に銃撃を行い、その水柱で護衛駆逐艦に位置を知らせると、護衛駆逐艦がすかさず爆雷やヘッジホッグなどの対潜兵器を投下します。
「U-505」もランゲ艦長の指揮の下、果敢に魚雷で反撃しますが、空海からの攻撃にはいかんともしがたく、やがて爆雷によるダメージを受け、後部魚雷発射管室から浸水が始まってしまいました。
ランゲ艦長はもはやこれまでと決断。
浮上して総員脱出後、「U-505」を自沈させることを決定します。
その命令に従い「U-505」は浮上。
ランゲ艦長はクルーの安全を確認するために一番最初に艦外へ出ますが、そこに護衛駆逐艦からの射撃を受けて負傷してしまいます。
クルーは負傷した艦長をともに連れ出して海へと飛び込み、「U-505」はここに放棄されました。
このチャンスを逃すなとばかりに、ギャラリー大佐からの命令を受けていた護衛駆逐艦「ピルスベリー」は鹵獲要員を乗せたボートを発進。
ボートはまだ自沈が完全に行なわれる前だった「U-505」に到着し、米軍の鹵獲要員が艦内へと入りました。
その後「ガダルカナル」からも要員が到着し、何とか「U-505」の自沈を食い止めることに成功します。
こうして米英戦争以来二度目の海上での戦闘中に鹵獲した敵軍艦として「U-505」はバミューダ諸島のポートロイヤルへと曳航されました。
ランゲ艦長以下の「U-505」乗組員は一人を除いて全員が救助され、米軍の捕虜として扱われました。(一人は戦死)
鹵獲された「U-505」は徹底的に調査され、中でもエニグマ暗号機やその暗号表、海域の座標など多くの情報が米軍の知るところとなりました。
米軍は「U-505」の鹵獲を秘匿し、沈んだことにするため、捕虜となった乗組員たちのことも国際赤十字を通しての相手国への通告等行ないませんでした。
ギャラリー大佐率いる「ガダルカナル」機動部隊に対する勲章の授与なども、公表されたのは戦後になってからだったといいます。
鹵獲された「U-505」は分析されたのち、標的艦として沈められる予定でした。
しかし、ギャラリー大佐とその兄等の働きかけで、シカゴの博物館が引き取ることとなり、破壊されることをまぬがれました。
現在では屋外展示から屋内展示に切り替えられ、アメリカの国定歴史建造物として大事に保管されているといいます。

「Uボート史上最悪の損傷を受けても帰還した名誉の艦」から、一転して「戦闘中に艦長が自殺を図った艦」という不名誉を受け、さらには「戦闘中に鹵獲されてしまった不運の艦」となった「U-505」でしたが、ⅨC型潜水艦として唯一今でも現存する艦として生きながらえているというとても数奇な運命の潜水艦だと思います。
はたして「U-505」は幸運だったのでしょうか、不運だったのでしょうか。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2015/02/25(水) 20:32:42|
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| コメント:2
・・・・・たしか映画Uー571のモデルになった艦がこれだったのでしょうか?
戦争中はいろいろな逸話がある船が登場しますが
幸運の船ってフレーズはよく聞きますが
この船ははたしてどちらだったのでしょうか?
船に聞いてみないとわかりませんねw
- 2015/02/26(木) 01:09:28 |
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- あぼぼ #-
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>>あぼぼ様
あの映画もUボートの奪取でしたね。
この「U-505」以外にも何隻か鹵獲しようとしたことがあったようですので、いくつかのエピソードを合わせて作られたんでしょうねー。
- 2015/02/26(木) 21:26:44 |
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- 舞方雅人 #fR9d3WYs
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