「艦これ」で話題になりましたユーちゃんこと「U-511」は、ドイツ海軍のⅨC型と言う型のUボートです。
Ⅸ型は各型合計で280隻以上も作られた量産型潜水艦ですが、ドイツ海軍の基準では大型の部類の潜水艦であり、より小型で700隻以上も建造されたⅦ型に比較すれば建造に手間がかかると見られていた潜水艦でした。
「U-511」には何隻もの姉妹艦がいたわけですが、そのうちの一隻、「U-505」と言う潜水艦は、日本に来て「呂号500」となった「U-511」に負けず劣らずの数奇な運命をたどった艦でした。
「U-505」潜水艦は1941年5月に進水し、8月には就役しました。
排水量は水上では1120トン、水中では1230トン。
魚雷発射管を艦首側に4本、艦尾側に2本の計6本装備し、浮上して敵商船を攻撃するための10センチ単装砲1門と対空戦闘用の対空機関砲を装備しておりました。
最初の艦長はローヴェ大尉で、「U-505」は彼の指揮の下、3回の航海を行い何隻かの商船を撃沈する戦果を上げました。
1942年9月、ローヴェ大尉が病気のため艦長職を離れ、二代目艦長ツェッへ大尉が「U-505」の指揮を取ることになります。
ツェッへ大尉の指揮下、4度目の航海に出た「U-505」でしたが、このとき浮上航行中に英空軍のハドソン爆撃機の攻撃を受けます。
超低空で攻撃してきたハドソン爆撃機は、四発の爆雷を投下しましたが、そのうちの一発が「U-505」の船体を直撃。
その爆発はなんと上空ぎりぎりのところを飛んでいたハドソン爆撃機にすらダメージを与え、ハドソン爆撃機はそのまま海面に激突するように墜落してしまいます。
「U-505」の方もただでは済まず、セイル(潜水艦の上部構造物のこと)後部の対空機関砲は吹き飛び、船体の耐圧殻(潜水艦の船体の中で水圧に耐える部分)にも穴が開き、内部に浸水する状況でした。
この状況に艦長のツェッへ大尉は一度は総員退艦を命じるほどでしたが、部下の機関員たちが応急修理は可能と進言したため撤回。
努力の甲斐があって何とか応急修理に成功した「U-505」は、占領下フランスのロリアンUボート基地に帰還することができました。
「U-505」の帰還はドイツ海軍でも賞賛され、「U-505」は「もっとも甚大な損傷を受けながら帰還したUボート」という名誉の称号を与えられました。
しかし、「U-505」の幸運は長くは続きませんでした。
その後は出撃するたびにどこかが故障したり作動しなくなるなどで、早々に基地に戻らなくてはならないことばかりでした。
これは占領下のロリアン基地では基地で働くフランス人たちがサボタージュや破壊工作などを行なって、「U-505」の出撃を妨害したためもありましたが、仲間のUボート乗りたちからは何もできずにすぐに帰ってくる「U-505」とツェッへ艦長を「常に無事に帰還する艦長」などと揶揄することもあったと言います。
それでも「U-505」は10回目の航海に出発いたします。
今度は故障もなく、久々に獲物に巡り会えるかと期待は高まりましたが、アゾレス諸島沖で英軍駆逐艦に発見され、執拗な追跡を受けることになってしまいました。
「U-505」は潜航し、駆逐艦の攻撃に耐えていきますが、先に耐えられなくなったのは艦長でした。
なんとツェッへ大尉は、戦闘時のストレスに耐えかねたのか、皆の目の前で拳銃を取り出し自分の頭を撃ったのです。
ツェッへ大尉はほどなく死亡し、先任士官のマイヤー中尉が指揮を引き継いで何とか駆逐艦をやり過ごし、無事に帰還することができました。
しかし、「U-505」は前代未聞の艦長が潜航中に戦闘時にもかかわらず自殺を試みた潜水艦というとんでもなくありがたくない名称をいただくことになってしまったのでした。
(続く)
- 2015/02/24(火) 20:47:50|
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