世の中が大恐慌から政情不安定になってきつつあった1930年代。
英国は次世代の高速新型爆撃機を構想中でした。
そこで英空軍は1938年に、高速機開発に定評のあったデ・ハビランド社にその新型高速爆撃機の開発を命じますが、当時はドイツによる戦雲の気配が欧州に広がり始めていた時期でもあり、アルミニウムや鉄などの戦略資源物資をなるべく使わない機体であることが望ましいとされました。
デ・ハビランド社が選ばれた理由もまさにそれであり、同社は高速機同様合成木材による気体製造にも定評があったのです。
開発を命じられたデ・ハビランド社では早速設計に取り掛かり、基本的な胴体や翼を木製で仕上げた双発の高速爆撃機を作ります。
しかし、それは思ったほど高速にはなりませんでした。
デ・ハビランドの設計スタッフは試行錯誤を繰り返しますが、結局機体をできるだけ軽くするのがよいという結論に達しました。
そこでデ・ハビランド社はこの新型爆撃機から、重量のかさむ武装をすべて取り払ってしまいます。
こうすることで重量が軽減された設計案は、当時としてはかなり高速な時速650キロという速度を出すことができると見積もられました。
デ・ハビランド社は早速この設計案を空軍に提示しますが、空軍の反応は芳しいものではありませんでした。
今まで数多くの「戦闘機に追いつかれない高速爆撃機」は作られてきましたが、ごくわずかの間に戦闘機が性能アップし、すぐに追いつかれてしまっていたからです。
そのため空軍は、戦闘機に追いつかれても追い払える武装を持つべきという考えだったのでした。
しかし、世界の情勢がデ・ハビランド社に追い風となりました。
この試作機が木製であることも有利に働きました。
たとえ失敗作だとしても、戦略資源を使わずにすむなら、非武装の偵察機として作ってみてもよいという許可がおり、さらにドイツ軍による第二次世界大戦の勃発で、爆撃機型もすぐに製造許可が下りたのです。
1940年11月に試作機が完成したとき、空軍はそのあまりの性能のよさに驚きました。
この試作機は当時大増産しなければならない戦闘機「ハリケーン」や「スピットファイア」と同じマーリンエンジンを二つも使用するという贅沢な機体でしたが、それゆえにこの強力なエンジン二つがすばらしい性能を導き出していたため、こちらにもまわされることになりました。
試作機は正式に「モスキート」と名付けられ、無武装の偵察機型と爆撃機型が生産され始めました。
するとこの高速で機動性も高い双発機は、あっという間に前線で高評価を獲得します。
ドイツ軍機に容易には追いつかれない高速性能と、たとえ追いつかれても高機動で振り切ることができる「モスキート」はパイロットには生き残ることができる機体としてとても評価が高かったのです。
すぐにあちこちの部隊から「モスキート」をまわしてくれとの要望が殺到し、「モスキート」は英空軍になくてはならない機体となりました。
当初空軍は「モスキート」は被弾に弱いと考えておりました。
金属製でない胴体は、敵機の銃撃にもろいと思われていたのです。
しかしそれは誤りでした。
「モスキート」の外板は確かに銃撃ですぐに穴が開きましたが、言ってしまえばそれだけでした。
金属製機体のように穴の開いた外板がめくれ、風圧でさらに裂けて広がるようなことはなく、撃たれたのが炸裂弾だったとしても、貫通が容易なだけに逆に反対側まで突き抜けてしまい、外で爆発するようなことも多かったといいます。

(モスキート爆撃機型)
そして何より木製であることは修理のしやすさが段違いでした。
それこそ「かなづちと釘と接着剤」があれば「モスキート」は修理ができたのです。
木材はそこらにあるものが使われました。
机、戸棚、ベッド、はてはドアまでもが引っぺがされて「モスキート」の修理に使われたといいます。
「モスキート」はその高性能から次々と派生種が作られました。
無武装だった「モスキート」は爆弾の代わりに武装を取り付けるようになり、レーダーを取り付けた夜間戦闘機型や武装も爆弾も積む戦闘爆撃機型など四十三種にも及ぶ派生型が作られたといいます。

(モスキート戦闘爆撃機型)
戦争中盤から戦争後半にかけて「モスキート」は大活躍しました。
その高性能と活躍ぶりから、英国人は「木の驚異:ウドゥン・ワンダー」と呼んだといいます。
七千七百機が作られた「モスキート」は、今でも「木製の万能機」として、英国人の誇りの一つとなっているのでした。
それではまた。
- 2014/06/14(土) 21:25:35|
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