マーチャーシュ一世によって捕らえられ、ハンガリーで虜囚生活をヴラド三世が送っていた間、故郷のワラキアはヴラド三世を追い出したラドウがワラキア公として統治しておりました。
ラドウの統治は比較的穏やかで、しばらくはワラキアも平和を享受することができましたが、やがてドナウ川の河口にある町キリアの領有をめぐり、モルドヴァと対立。
ついには戦争へと発展してしまいます。
ラドウのバックにはオスマン帝国が付いている状態でしたから、ワラキアと対立するモルドヴァはすなわちオスマン帝国とも対立することになってしまいます。
モルドヴァの公位にはヴラド三世の親友シュテファンが就いており、ここで彼は対オスマン戦の英雄である生涯の友人のことを思い出して、マーチャーシュ一世にヴラド三世の解放を依頼します。
マーチャーシュ一世もヴラド三世を捕らえはしたものの、これ以上のオスマン帝国の影響力増大は望ましくなかったのか、モルドヴァ公シュテファンの要請を受け、ヴラド三世をワラキア公に返り咲かせる盟約がモルドヴァとハンガリーの間で結ばれました。
マーチャーシュ一世の妹と結婚し、ハンガリーで平和な暮らしをしていたヴラド三世でしたが、親友シュテファン公の苦境を見捨てることはできなかったのか、彼はマーチャーシュ一世から二万の兵を借り、再びオスマン帝国と戦うために立ち上がります。
1476年、ヴラド三世はオスマン帝国の侵攻を受けているモルドヴァに進軍。
しかし、彼が到着した時点ですでにオスマン帝国軍はシュテファンの取ったかつてのヴラド三世同様の焦土作戦に疲弊し、撤退を開始した後だったといいます。
そこでヴラド三世は、そのまま兵を率いてワラキアに進軍します。
そしてワラキア公ラドウを追い払い、三度目のワラキア公に就任いたしました。
このヴラド三世のワラキア公就任は、公室評議会によって正式に認められたものでしたが、ヴラド三世を迎えたワラキアの人々の目は冷ややかでした。
彼らは東方正教会に属していたため、カトリックに改宗したヴラド三世を受け入れることができなくなっていたのです。
このためワラキア国内ではまたしても反ヴラド三世派の貴族たちが暗躍し始め、政情は乱れていきました。
さらにオスマン帝国との戦いもまだ終わったわけではありませんでした。
三度目のワラキア公就任からわずか数ヵ月後(翌年説もあり)、ヴラド三世はその生涯を終えました。
オスマン帝国との戦いによる戦死とも、反対派貴族による暗殺とも言われます。
わずか45年(翌年説だと46年)の生涯でした。
ワラキアはその後もオスマン帝国の脅威にさらされ続け、西暦1600年にワラキア公ミハイのもとでワラキア、トランシルヴァニア、モルドヴァが統一されるものの結局長くは続かず、やがてオスマン帝国によってルーマニア地域は併呑されてしまいます。
ルーマニアが再び(ワラキア、モルドヴァ、トランシルヴァニアを含んだ形で)国家として独立するのは、1918年の第一次世界大戦の終結まで長い時を待たねばなりませんでした。
ヴラド三世は決して善人ではなかったかもしれません。
しかし、彼の悪行とされるものの多くは、ハンガリー王マーチャーシュ一世が彼を捕らえた理由を説明するために誇張したと思われるものが多く、また、マーチャーシュ一世が当時発明されたばかりの印刷技術を使って広めたこともあって、多くのヨーロッパの人々が信じてしまったことから「悪魔の子ドラキュラ」と呼ばれるようになってしまったのでしょう。
しかし、小国ワラキアで大国オスマン帝国に真っ向から勝負を挑み、その大軍を退けるというのは並大抵のことではできません。
ヴラド三世が今でもルーマニアの民衆に畏敬の念で扱われているというのは、まさにそういう点が大きく作用しているのは間違いないことでしょう。
ドラキュラと呼ばれた男 終
参考文献
「歴史群像2003年6月号 ドラキュラ戦記」 学研
参考サイト
Wikipedia ヴラド・ツェペシュ マーチャーシュ一世 他
今回も各種資料の自分なりのまとめでした。
少しでも「吸血鬼ドラキュラの元となった人物」と言うのがどういう人物だったのかがわかっていただけたら幸いです。
お付き合いありがとうございました。
- 2013/12/06(金) 21:04:06|
- ドラキュラと呼ばれた男
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ブラド3世のハンガリーでの12年間の生活は穏やかで彼の荒んだ心もあるていど癒えていたという話を聞いたことがあります。(嫁さんに編み物を作ってあげたとかw)
彼にとってシュテファンという親友と最後の12年の夫婦生活は前半生の暗黒の中の一筋の光だったのかもしれませんね。
ただ、人の評価というものはその評価する人間の時代、価値観でいかようにも変わるもの
数百年にわたる占領下の支配のなかで大帝国に勝利したブラドを英雄とみる動きが出るのも自然な流れなのかもしれません、だから歴史は面白いw
- 2013/12/07(土) 00:51:34 |
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- あぼぼ #-
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マーチャーシュ一世はキリスト教対イスラム教のイデオロギー対立にこだわらず、ハンガリーの保全を第一に考え、ヴラド三世をそのための手駒として確保しておいた感じですね。
ヴラド三世は生前の苦労だけでなく、ブラム・ストーカーの小説や映画などで怪物扱いされる羽目になってしまいますが、その代わり有能でセクシーな超人的イメージで描かれる人気者になり、あの世でヴラド三世はどんな気持ちでいるんでしょう・・・。
- 2013/12/07(土) 21:16:48 |
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- 富士男 #-
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>>あぼぼ様
奥様との平和な一時は政治や戦争に明け暮れることのない静かな時間だったんでしょうねぇ。
異教徒の大帝国に対する一筋の光明というのがのちのちにまで引き継がれてきたのかもしれませんね。
>>富士男様
マーチャーシュ一世もかなり賢い王だったらしいのですが、どうにもこのヴラド三世に対する扱いは同時代の人々にも不可解に映ったようではありますね。
今のスタイリッシュな吸血鬼像にはもしかしたら苦笑しているかもしれませんね。
- 2013/12/07(土) 21:25:40 |
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- 舞方雅人 #-
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