ヴラド三世の追い落としを図り、かつてのワラキア公の遺児と手を結んだサシ人(ザクセン人)商人たちでしたが、そのような目論見はあっという間に潰えました。
挙兵した遺児ダンの軍勢はヴラド三世の常設軍の前にあっけなく敗退し、ダン自身も捕らえられて斬首刑となってしまったのです。
ダンの背後にサシ人商人たちがいることを理解していたヴラド三世は、当然彼らに対しても報復に及びました。
彼はサシ人商人たちの拠点となっているトランシルヴァニア領内にまで軍勢を差し向け、一帯を焼き払うということまでやったのです。
彼のこうした強硬な富国強兵策は貴族や商人たちにとどまらず、一般の領民にまで及びました。
領民は勤勉かつ道徳的に生活することを求められ、犯罪者や不正を働く者などには容赦ない罰が与えられました。
そのため犯罪者は激減したといいますが、彼の苛烈な行動はとどまることを知りません。
一説によれば、彼は犯罪の温床ともなる生活困窮者や病人などを根絶するため、国内数ヶ所でそういった貧者や病人を集め、たらふく飲み食いをさせたあとで彼らのいる場所に火をつけて焼き殺し、これでわが国に貧者や犯罪者はいなくなったと豪語したとも伝えられます。
またオスマン帝国からの正式な使者を迎えたとき、使者がトルコの流儀に従って帽子を取らなかったことに激怒し、使者の頭に帽子を釘で打ちつけたりもしたといいます。
彼のこういった残虐さと、多くの人々を串刺し刑にしたことから、いつしか彼は串刺し公(ツェペシュ)と呼ばれるようになりました。
また、彼の父がドラクル(龍公)であったことからドラキュラ(龍公の子)というあだ名を本人も好んで使っておりましたが、ドラクルは龍であると同時に悪魔を意味する言葉でもあることから、いつしかドラキュラは悪魔の子の意味で捉えられるようになっていったといいます。
このように苛烈に富国強兵を勧めていたヴラド三世でしたが、やはりワラキア一国で強大なオスマン帝国と事を構えるわけには行かず、従属的な外交を行なわざるを得ませんでした。
一方で、彼は友情で結ばれたボグダン二世の子シュテファンに助力し、隣国モルドヴァの公位に彼を就けることに成功します。
彼は亡命時の友情を忘れていなかったのです。
冷酷といわれるヴラド三世のこれは別の側面でもありました。
そしてヴラド三世は隣国ハンガリーとの関係強化にも努め、ハンガリー王となったフニャディ・ヤーノシュの息子マーチャーシュ一世の妹と婚姻を結び、ハンガリー王と縁続きになりました。
こうして周囲の国々との関係を強化したヴラド三世は、いよいよ反オスマン帝国の立場を鮮明にすることにいたします。
1459年、オスマン帝国からの使者を今度は串刺し刑に処したヴラド三世はこのことによりオスマン帝国との敵対を内外に表明。
これに激怒したオスマン帝国のスルタン、メフメト二世は軍勢を率いてワラキアを討伐することに決定。
いよいよワラキアと強大なオスマン帝国の正面切っての戦いが始まるのでした。
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- 2013/11/23(土) 21:03:53|
- ドラキュラと呼ばれた男
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>犯罪の温床ともなる生活困窮者や病人などを根絶するため
なにやら20世紀の全体主義の先取りみたいな感じがしますね。
- 2013/11/24(日) 21:43:37 |
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