ちょっと間が開いてしまってすみませんでした。
紆余曲折を経て再びワラキア公となったヴラド三世は、まず国内の秩序の回復と安定を図る一方で、自己の権力を高める中央集権化を進めます。
具体的には当時のワラキアの政治制度の中心となっていた公室評議会の解体か弱体化を図ったのでした。
公室評議会とは、君主であるワラキア公を元来補佐するものではありましたが、有力貴族たちが合議で国政を行なうという意味合いの方が強く、かえって貴族たちによって君主が掣肘されることもしばしばでした。
彼らは有力貴族ゆえに特権を持ち、その特権は君主でも容易にどうこうできるものではなかったのです。
また彼らはしばしば貴族同士で権力争いを行い、これもまた国内を乱れさせる要因でもありました。
ヴラド三世はこうした公室評議会の貴族たちの特権を排除し、発言力を弱めようとしたのです。
ヴラド三世はまず公室評議会の連中を罷免することからはじめました。
国を弱めたということで、何人もの有力貴族を罷免し、後釜に発言力の弱い中小貴族を据えたのです。
当然このようなやり方は有力貴族の反発を招きます。
中にはヴラド三世を暗殺しようとする貴族まで出てきます。
しかし、これは逆にヴラド三世にとっては好都合でした。
彼は反対する貴族たちを先に処刑してしまいます。
このときの処刑方法があの串刺しだったといいます。
串刺し刑は当時の欧州では比較的普通に見られる処刑法だったといいます。
ですのでヴラド三世だけが串刺しを行なったわけではないのですが、のちに彼の行なった行為を悪逆非道として広めたものがいたために、ヴラド三世と串刺しが強く結び付けられてしまったのです。
この串刺しの処刑は貴族たちを震え上がらせました。
そのため一時的には貴族たちの反抗も下火になりますが、やはり抵抗は続きました。
ヴラド三世はそれらを常に弾圧し、一説によれば処刑された貴族たちの数は500人にも上るといわれます。
こうした弾圧や改革の実行力となったのが新設された常設軍でした。
それまでのワラキアでは有力貴族たちの私兵の連合軍が主体であり、彼らは貴族たちに従うものであったため君主の命に従わないこともあったほか、その貴族の動向によっては敵にすらなる存在でした。
そのためヴラド三世は君主直属の常設軍を作り、農民や自由民などから徴募して兵士として戦力にしたのです。
彼らには戦場で働きのあった者には英雄としてたたえ、反対派貴族から奪った土地などを与えて士気を高めるとともに、敵前逃亡などをしたものには串刺し刑を行うなど恐怖による支配も行なって君主に忠実な軍隊として育てていきました。
この常設軍が反対派貴族たちに対する抑止力や強引な改革を行なう上での実行力となったのです。
この常設軍を維持するためには経済力も必要でした。
そこでヴラド三世は国内産業の育成と活性化のために保護貿易政策を行ないました。
このことはこれまでワラキア国内で商売を行っていたサシ人(ザクセン人)たちにとっては受け入れられないことでした。
彼らもまた、ヴラド三世に対抗するため、ある計略を行なおうとします。
ワラキア公の遺児を担ぎ上げ、ワラキアの公位簒奪を図ったのでした。
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- 2013/11/19(火) 21:05:02|
- ドラキュラと呼ばれた男
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