モルダヴィア公ボグダン二世の庇護を失ったヴラド三世は、またしても居場所を失い亡命を余儀なくされました。
ところがこのとき、ヴラド三世が新たな亡命先として選んだのは、かつて父ヴラド二世と兄ミルチャを殺し、ヴラディスラフ二世を擁してヴラド三世をワラキア公の位から追い落とした仇敵とも言うべき相手フニャディ・ヤーノシュの治めるトランシルヴァニアだったのです。
日本でも、「関ヶ原の戦い」の前、武断派の武将に命を狙われた石田三成が徳川家康に庇護を求めたという話がありますが、このときのヴラド三世もある意味賭けのようなものだったかもしれません。
はたしてフニャディ・ヤーノシュはワラキア公の血筋であるヴラド三世に利用価値ありとみなしたのか、ヴラド三世とボグダン二世の嫡男シュテファンの両名の亡命を受け入れます。
もともとフニャディ・ヤーノシュは敵であるオスマン帝国からさえも騎士道精神にあふれたすぐれた武人だと評されており、ハンガリーの摂政になれたのもその人望によるところが大だったとされる人物であり、ヴラド二世とミルチャを殺したのも彼の命ではなかったと言われるぐらいでしたので、そういった評判にヴラド三世は賭けてみたのかもしれません。
ともあれヴラド三世はフニャディ・ヤーノシュの元で暮らすこととなり、フニャディとともに出陣するなどして、彼の持つ軍略などを身に付けていきました。
フニャディのほうもヴラド三世を重用し、さまざまなことを学ばせました。
こうして二人は師弟関係を築き、オスマン帝国の圧力に屈して帝国寄りになっていたワラキア公ヴラディスラフ二世を追い落とそうといたします。
1456年、3年前にコンスタンチノープルを陥落させイスタンブールと改名したオスマン帝国が更なる拡張をもくろんでまたしてもバルカン半島に進出します。
これに対してキリスト教圏混成軍が編成され、フニャディ・ヤーノシュが指揮官として出陣。
見事にオスマン帝国軍を撃退することに成功します。
しかし、陣中に蔓延したペストに罹患したフニャディはそのまま帰らぬ人となってしまいます。
同じ頃、ヴラド三世はフニャディに与えられた軍勢と、反ワラキア公のワラキア貴族軍を引き連れてワラキアに侵攻しておりました。
オスマン帝国寄りの政策で多くの貴族に見放されていたヴラディスラフ二世は、この侵攻になすすべもなく敗退。
あっけない最期を遂げてしまいます。
これによって同年8月、ヴラド三世は再びワラキア公として返り咲きました。
ワラキア公ヴラド三世の治世の始まりでした。
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- 2013/11/12(火) 21:02:18|
- ドラキュラと呼ばれた男
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