オスマン帝国に人質として残されたヴラド(三世)は、いつ殺されるかわからないような過酷な日々を帝国の軍制や政治を学びつつ過ごしました。
少年期をだれに頼ることもできない状態で過ごしたことで、のちの彼の猜疑的な性格はこの時期に形成されたとも言われます。
一方次男三男をオスマン帝国に人質として残してきた父ヴラド二世は、彼らをいなかったものとして見捨て、再びオスマン帝国に対抗する方向にワラキアを導きます。
彼はトランシルヴァニア領主フニャディ・ヤーノシュと手を組み、他のキリスト教圏の国々とともに1444年の「ヴァルナの戦い」に参加します。
この戦いはポーランド王兼ハンガリー王ヴワディスワフ三世(ハンガリー王としての名はウラースロー一世)が中心となって集めた兵力約二万が、オスマン帝国軍約四万から六万に対して戦った戦いでしたが、やはり衆寡敵せずキリスト教圏混成軍は大敗を喫してしまいます。
ポーランド王ヴワディスワフ三世も戦死したこの戦いの敗戦の責任をめぐり、フニャディ・ヤーノシュとヴラド二世は対立。
ワラキアとトランシルヴァニアの関係は急速に悪化していきました。
王を失ったハンガリーでは、しばし混乱が続いたものの、やがて実力と人望のあったフニャディ・ヤーノシュが混乱を鎮めていきます。
ハンガリー摂政に就任したフニャディは、関係の悪化していたワラキアを討伐することに決め、1447年、ワラキア討伐の軍を動かしました。
この件でヴラド二世は長男ミルチャとともに捕らえられ、ヴラド二世は処刑、長男ミルチャも自ら掘った穴の中で生き埋めにされたといいます。
ワラキア公を失ったワラキアは、フニャディの息のかかったヴラディスラフ二世がワラキア公に就任します。
彼はヴラド(三世)とは又従兄弟で、ワラキア公として担ぎ出すのには最適と判断されたのでしょう。
ですが、フニャディが背後にいるヴラディスラフ二世がワラキア公となると、またしてもオスマン帝国に敵対するようになるのはわかりきっており、オスマン帝国としては容認できないことでした。
そこでオスマン帝国は人質として置いていたヴラド(三世)を、ワラキア公に即位させるべく動き出します。
オスマン帝国側にとってありがたいことに、その機会は早くも訪れました。
1448年に再びキリスト教圏混成軍が南下してきたことでオスマン帝国との戦いになり、オスマン帝国がまたもや勝利したのです。
この戦いにはオスマン帝国側の一員としてヴラド(三世)も参加しており、勢いに乗ってそのままオスマン軍とともにワラキア公ヴラディスラフ二世を追い出し、ワラキア公ヴラド三世として就任したのです。
ですが、このワラキア公の座もわずか二ヶ月しかありませんでした。
態勢を立て直したフニャディのハンガリー軍がワラキアを攻め、ヴラド三世はワラキアを脱出せざるを得なくなってしまったのです。
ワラキアを脱出したヴラド三世は、叔父であるボグダン二世の統治するモルダヴィアに亡命しました。
ボグダン二世はヴラド三世を暖かく迎え入れ、ヴラド三世はここでつかの間の平穏を手に入れることになります。
またボグダンの嫡男シュテファンとは固い友情を結ぶことができ、彼はこの友人を心から信頼するようになりました。
しかし、この平穏も長くは続きません。
1451年にモルダヴィア内の権力闘争からボグダン二世が暗殺されてしまうのです。
ヴラド三世はまたしても後ろ盾を失い、父を失った友人シュテファンとともにモルダヴィアを脱出せざるを得ませんでした。
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- 2013/11/08(金) 21:01:57|
- ドラキュラと呼ばれた男
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聞きしに勝る悲惨な歴史ですね・・・。こんな環境で育ったら明朗快活な人間になる方が難しい感じがします。
民衆の方もこんなにしょっちゅう戦争があるのでは迷惑としか言い様がないですね。
- 2013/11/09(土) 20:12:28 |
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- 富士男 #-
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>>富士男様
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり記事を書いていても毎年のように戦争やっているなと言う気がしました。
ヴラド三世については今後がこれまたすさまじくなっていくんですよねー。
- 2013/11/09(土) 21:28:43 |
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- 舞方雅人 #-
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