年が明けて1863年1月25日、アンブローズ・バーンサイドは解任され、ジョゼフ・フッカー少将が新たにポトマック軍の司令官に任命されました。
ファイティング・ジョーとあだ名されるフッカーに、リンカーンはポトマック軍の命運を託したのでした。
フッカーはとにかく時間を掛けて北軍ポトマック軍を立て直すことに全力を尽くします。
春になる頃にはポトマック軍は陣容を立て直し、十三万を数えるほどになりました。
一方、南軍リー将軍はフッカーが当分動き出さないことを考慮して、ロングストリート将軍の部隊を別方面の北軍に差し向けます。
そのためリーの手元には六万しか残りませんでした。
しかし、フレデリクスバーグの陣地に篭もって防御に徹すれば、フッカーの大軍にも渡り合えると考えていたのです。
当然のことフッカーは、そのような堅固な防御陣地に篭もる南軍に対して正面攻撃を再度行なうような愚行をするつもりはまったくありません。
彼はリーの南軍を何とかその防御陣地より引きずり出そうと考えていたのです。
彼はリーの軍勢をおびき出すために、大胆にも軍勢の半数近くをフレデリクスバーグの西側にあるチャンセラーズヴィルという町に集結させ、そこからフレデリクスバーグの側面を突くように見せかけます。
フッカーはさらに軍勢を送り込み、最終的には手持ちの七個軍団の内五個軍団までもチャンセラーズヴィルに送り込みました。
こうなるとリーは決断を迫られます。
このまま挟撃を受けるわけには行きません。
リーはアーリー指揮下の一個師団のみをフレデリクスバーグに残し、全軍をもってチャンセラーズヴィルの北軍主力を撃破することにします。
1863年5月1日。
フッカーの前衛はリーの放った索敵隊と接触。
この時点で前線指揮官たちは広い平地に進出して南軍を迎え撃つべきと主張しましたが、フッカーはチャンセラーズヴィル近郊に設置した防御拠点に後退を命じます。
拠点に拠って戦うことで、リーの攻撃を受け流し、その後に反撃に転ずるつもりだったのかもしれません。
フッカーが拠点に篭もったのを確認したリーは、逆に大胆な行動に出ます。
なんと四万ほどまでに減っていた(アーリーの師団などを分派したため)自軍を、さらに分けたのです。
彼は二万五千の兵力を信頼するジャクソンに預け、北軍の側面を迂回させて半包囲陣形を取るつもりだったのです。
これは賭けでした。
フッカーが動き出せば、リーは残った一万五千で北軍七万三千を引き受けなくてはならないのです。
5月2日の午前10時、ジャクソン隊が迂回行動に入ります。
しかし、この行動は北軍シクルズ隊に発見されます。
シクルズ隊との小競り合いの後、ジャクソンはさらに迂回を進め、夕方にはほぼ北軍の背後とも言うべき位置まで進出しました。
シクルズ隊のジャクソン隊発見の報告はフッカーの元にも届けられましたが、フッカーはシクルズ隊から離脱したジャクソン隊はきっと後退したのだろうと考えました。
まさかジャクソン隊が背後までぐるっと迂回行動を取っているとは思いもしなかったのです。
5月2日午後5時ごろ。
オリヴァー・ハワード少将率いる北軍第十一軍団は、日没が近い事と後方にいるという安心感からか夕食の準備を進めていました。
その時、周囲の林の中からジャクソン率いる南軍の兵士たちが喚声を上げながら現れ、北軍兵士たちの度肝を抜きます。
ハワード隊はあっという間に組織立った抵抗をする能力を失い、ほぼ壊滅状態に陥ります。
後退は壊走になり、連鎖反応で隣接した部隊も次々とパニックになりました。
馬上で叱咤するジャクソンに鼓舞され、南軍兵士たちは思うままに暴れまわりましたが、日没も過ぎ、周囲が暗くなって来たあたりで、ようやく北軍も防御体勢を整えることに成功します。
満月に近い月齢の明るさのため、夜間での攻撃が可能と判断したジャクソンは、北軍の防御ラインの弱点を探すべく、自らが偵察に出ます。
数人の幕僚とともに馬上の人となったジャクソンは、偵察を終えると、新たな攻撃を指示するために自軍部隊に戻って行きました。
悲劇はこの時起こります。
南軍部隊の周囲には当然警戒のために歩哨(警戒担当の兵士)が立っておりました。
夜間、月明かりがあるとはいえ、敵味方の識別は困難です。
歩哨は木立を抜けて近づいてくる騎馬の一団が、まさか自分たちの敬愛する司令官だとはまったく思いませんでした。
まず一発。
続いて周囲の歩哨からもまばらな射撃が行なわれ、騎馬の一団が倒れこみます。
恐る恐る近づいた歩哨が確認したその姿は、紛れもなくジャクソン将軍のものでした。
ジャクソンが受けた銃弾は二発とも三発とも伝えられておりますが、重傷だったのは左腕で、彼は左腕切断を余儀なくされます。
そのため、以後のジャクソン隊の指揮はA・P・ヒルが取ることになりました。
しかし、そのA・P・ヒルもその後の小競り合いで負傷。
騎兵指揮官のスチュアートが臨時指揮官となります。
結局夜襲は取りやめとなりましたが、それでも南軍が押していることに変わりはありませんでした。
フッカーは防備を固め、何とかリーの攻撃をしのごうとします。
翌5月3日。
またもリーを驚愕させることが起こります。
フレデリクスバーグに残してきたアーリー師団が、対岸の北軍セジウィック隊に攻撃され、後退したというのです。
リーはやむなくスチュアートに後を任せ、自身は軍勢を率いてアーリーの救援に向かいます。
5月4日、セジウィック隊とリーの軍勢が衝突。
双方痛みわけのような戦闘でしたが、セジウィックが後退。
再びラパハノック川の北岸に戻ります。
それを聞いたフッカーも軍勢をチャンセラーズヴィルより後退。
ここに「チャンセラーズヴィルの戦い」は終結します。
南軍の損害一万三千、北軍は一万六千の兵を失いました。
戦場に残ったのは南軍であり、またしても北軍は手痛い敗北をこうむったのです。
しかし、南軍にとっては最大の悲劇が戦闘終結後に起こります。
左腕切断の重傷だったストーンウォール・ジャクソンことトーマス・ジョナサン・ジャクソン将軍が、当時の不衛生な治療のため、感染症にかかって死亡したのです。
5月10日のことでした。
「川を渡って・・・木陰で休もう・・・」
これが最後の言葉でした。
信頼する部下であり、個人的にも親友であったジャクソンの死はリーを打ちのめしました。
「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った・・・」
南軍にとってはあまりにも大きな損失でした。
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- 2007/03/29(木) 20:47:12|
- アメリカ南北戦争概略
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>>ベルクルド様
南軍にとっては悔やんでも悔やみきれないですよね。
味方撃ちというのは戦争には付き物ですけど、重要な場面ででてしまうとは。
リーの落胆は尋常ではなかったでしょうね。
- 2007/03/31(土) 21:00:32 |
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