甲子園では春の選抜高校野球大会が始まりましたし、プロ野球もパシフィックリーグは開幕です。
いよいよ春本番ですねー。
北海道日本ハムは降雨コールド引き分けでした。
今年は優勝厳しいだろうなぁ~。
阪神はどうかなー。
どっちもがんばれー!
というわけで、南北戦争です。
ようやく前半戦が終了し、中盤に差し掛かるところですね。
もう少しお付き合い下さいませ。
「アンティータムの戦い」は終わりました。
戦場には北軍が残り、南軍はメリーランドより後退しました。
損害は大きかったものの、これはまさに勝利でした。
しかも大きな勝利でした。
自軍の損害と、なおピンカートン情報などによって幻影の南軍に翻弄されていたマクレランは確固たる追撃をすることができず、リーの軍勢をヴァージニアに逃してしまうという状況ではありましたが、勝利には違いありません。
そして、この勝利が一番影響を与えたのは、戦場ではありませんでした。
南部の独立を認めず、この戦争を連邦制維持のための戦争と捉えていたリンカーンは、南部社会及び経済に取り、何が一番ダメージを与えるかを見極めておりました。
「奴隷制」です。
奴隷制を崩壊させることこそが、南部を崩壊させることなのです。
南部の社会は奴隷制が深く根付いておりました。
奴隷制の廃止は、南部にとっては政治、経済、さらには文化に至るまで失うことになるのです。
それは北部にとっては南部に対する報復心をも満たすものでした。
さらに奴隷は兵士として戦ってはいなかったものの、陣地設営や後方支援、食糧増産などに駆り出されていました。
奴隷がいなくなれば、南軍の戦力が大幅ダウンするのは目に見えていたのです。
そして、奴隷解放という名目は、諸外国に対しても実に口当たりのいい戦争目的でした。
この戦争は北部にとっては虐げられた人々を解放する正義の戦争であると印象付けることができるのです。
奴隷解放。
そのスローガンをリンカーンは発表するチャンスをうかがっておりました。
南軍が押せ押せムードでいる時に発表しても、それはさしたる効果を持たないどころか、苦し紛れのやけっぱちな行為ととられかねません。
発表には北軍の勝利が必要でした。
その勝利が「アンティータムの戦い」で手に入りました。
スカッとした勝ち方ではなかったかもしれません。
しかし、マクレランはリンカーンが待ち望んでいた勝利を献上することができたのです。
戦場から後退した以上、南軍は勝利を主張することはできませんでした。
1862年9月23日。
リンカーン大統領は「アンティータムの戦い」のわずか五日後に、「奴隷解放予備宣言」を発表します。
これは翌1863年1月1日をもって叛乱地域に存在する全ての奴隷は自由とするというもので、北部連邦内の奴隷に関しては今までどおりという、非常に矛盾した内容でした。
しかし、この予備宣言の効果は大きく、英国及びフランスによる干渉はほぼ排除されることになります。
奴隷を解放するというインパクトのある宣言を前にしては、南部諸州同盟を独立国として承認することははばかられてしまったのです。
また、この宣言により、南北戦争がもはや相手側の崩壊を持ってしか終戦にはなりえなくもなったのです。
この宣言が出される以前であれば、南北両政府は互いの妥協点を見出し、南部が連邦制にとどまる替わりに奴隷制の尊属が認められるということもありえました。
しかし、この宣言が出された以上、妥協はありえなくなります。
南部はその社会を維持するためにも戦わなくてはなりませんでした。
勝利者となったマクレランではありましたが、リンカーンは彼に失望しておりました。
リーの軍勢を追撃することもせずにその場にとどまり続けた彼は、やがてリンカーンにより解任されます。
ポトマック軍は敬愛する司令官を失いました。
マクレランはこれ以後二度と軍の指揮を取ることはできませんでした。
彼はこの後反リンカーンの立場を取って1864年の大統領選挙に出馬し、リンカーンに敗れます。
その後はヨーロッパに一時滞在し、帰国してのちはニュージャージー州の知事として地方自治に携わります。
1885年、五十九歳で死去。
北軍を組織化し、戦える軍勢にしたのは間違いなく彼の功績でした。
アンティータム以後の北軍司令官は、彼が作り上げた北軍をただ上手に運用したに過ぎません。
ともあれ、一つの局面が終結しました。
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- 2007/03/24(土) 21:28:22|
- アメリカ南北戦争概略
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