「松」型駆逐艦によります松竹梅も三隻目。
「梅」のご紹介。
「梅」は「松」型駆逐艦の三番艦として、昭和19年(1944年)1月に起工され、同年6月に就役しました。
まさに計画時の六ヶ月で完成させるというのが実行できていたわけです。
主要目は一番艦「松」と同様で、変更されたところはありません。
就役後は慣熟訓練を行なったのち、台湾への輸送任務に参加。
無事に往復を終えました。
その後は南方に進出する戦艦「伊勢」「日向」の護衛に付いたり、「大和」を中心とする栗田艦隊に同行するなどしましたが、昭和19年(1944年)11月末ごろにはフィリピンのマニラに入港し、レイテ島オルモック湾への輸送作戦「多号作戦」に参加することになります。

(画像は同型艦「桃」)
12月5日に第八次多号作戦参加部隊としてマニラを出航。
米軍のオルモック湾南部への上陸の報に接し、オルモック湾からサン・イシドロに揚陸地を変更したものの、兵員の輸送のみ成功で重装備の揚陸には失敗。
さらに船団もほとんどが壊滅するという状況でした。
「梅」そのものは少々の被害を受けたもののマニラに無事に帰着。
その後香港へ向かい、そこで修理を受けました。
修理終了後は台湾へ行き、そこで再びルソン島に陸戦隊や物資などを輸送する任務が与えられました。
昭和20年(1945年)1月31日、「梅」は同じ「松」型の「楓」、「峯風」型駆逐艦の「汐風」の二隻とともに台湾の高雄を出航。
しかし、そのすぐあとに米軍の哨戒機に発見されてしまいます。
15時ごろから米軍のB-25およびP-47の空襲が始まり、「梅」は爆弾を三発被弾。
機械室を破壊され航行不能に陥りました。
「梅」は20度ほど傾斜し、救う手立ても失われたため総員退艦が命令されます。
生存者は「楓」、「汐風」に移乗し、「梅」は「汐風」の砲撃により処分され、「楓」と「汐風」は作戦を中止して台湾へと引き返しました。
太平洋戦争後半の制空権なき駆逐艦隊の悲劇そのままといった感じですね。
空襲に耐えつつ必死に部隊を輸送する。
そしてその大半がむなしく失われてしまう。
「梅」もそんな中の一隻でした。
それではまた。
- 2013/01/16(水) 21:05:03|
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