こうして建造されることとなった「松」型駆逐艦は、基準排水量がこれまでの艦隊型駆逐艦の約半分ほどの1300トンほどであったことから、一等駆逐艦でありながら本来1000トン以下の二等駆逐艦に付けられるはずの植物名が付けられることになり、一番艦の艦名が「松」であったことから「松」型駆逐艦と称されるようになりました。
一番艦の「松」の起工は昭和18年(1943年)8月に始まりましたが、この時点ではすでにもうガダルカナル島の攻防戦は終わっており、陸軍の兵士たちはガダルカナル島から撤退しておりました。
しかし、以後も島嶼をめぐる攻防戦は激化する一方であり、それに伴って駆逐艦の需要も多く、「松」型駆逐艦の大量生産は待ったなしの状況でした。
そのためすでに簡易生産型として手間のかかる工程を極力廃していた「松」でしたが、竣工直前には建造工程でさらに簡略化できる部分を盛り込んで徹底的に簡素化した改「松」型とも言うべきタイプも計画されました。
こちらは「松」型の一部とされることもありますが、一番艦の艦名が「橘」ということもあり、「橘」型として別扱いされることもあります。
「松」型は起工から完成までを約6ヶ月という短期間で終わらせることが目論まれておりました。
一番艦の「松」は昭和19年(1944年)4月末に完成し、約9ヶ月間かかりましたが、これは一番艦であることで造船所側も不慣れであったためで、以後の建造は約6ヶ月で工期を終えることができるようになって行きました。

(プラモの箱絵ですが)
「松」は公試排水量約1500トン。
全長は100メートル。
最大幅は9.35メートル。
最大速度約27.8ノット。
武装に12.7センチ高角砲連装、単装各一基、61センチ四連装魚雷発射管一基、爆雷36発を搭載しており、対空と対潜水艦用の武装に重点が置かれておりました。
「松」は極力手間のかかる工程を廃するために、従来の日本駆逐艦の特徴であった艦首部分の曲線構造を取りやめ、直線で形成された艦首部分となっていました。
また機関の馬力も1万9000馬力と従来の艦隊型駆逐艦の3分の1ほどしかなく、大きさを考えてもかなり速力は下がるだろうと考えられておりました。
しかし、最大速度はそれでも27.8ノットを出すことができ、意外に速度低下はそれほどではありませんでした。
このことは従来の駆逐艦の艦首構造が手間ばかりかかってそれほど効果がなかったということでもありました。
また、「松」型では日本海軍では初めてシフト配置の機関配置が取られ、前後二ブロックの機関室が設けられたことでどちらかが被害を受けてだめになっても、もう片方が健在なら動力を維持できるようになりました。
このことは生残性を大いに高めることになったといいます。
(現代の戦闘艦艇はほぼシフト配置)
完成した「松」は、その後慣熟訓練を行い、昭和19年(1944年)7月29日、第二護衛船団司令部のの旗艦として駆逐艦「旗風」、海防艦二隻、駆潜艇一隻とともに陸軍の兵士を乗せた輸送船団を護衛して出航しました。

輸送船団は無事に目的地である小笠原諸島の父島に到着し、そこで部隊と物資を下ろしますが、揚陸後の8月4日に父島を出航したあたりで米軍航空機に発見されます。
船団はミッチャー提督の空母艦隊の艦載機の攻撃を受け、「松」「第四号」海防艦、輸送船一隻を残すのみまで減らされてしまいました。
空襲後、ミッチャー提督は水上艦隊に残敵掃討を命じ、デュ・ボース少将指揮する軽巡および駆逐艦の艦隊が輸送船団に向かいました。
18時ごろ、たった三隻の船団はデュ・ボース艦隊に捕捉され、「松」は海防艦と輸送船を逃がすために単艦で敵艦隊に突入します。
このときの米艦隊は軽巡三隻、駆逐艦は十二隻もの艦隊であり、とても「松」の歯が立つ相手ではありません。
「松」は海防艦に「われ敵巡洋艦と交戦中、ただいまより反転これに突撃・・・」の電文を最後に消息を絶ちました。
「松」が体を張って必死に逃がそうとした海防艦と輸送船でしたが、残念なことに輸送船のほうは逃げ切れず、こちらも米艦隊に沈められてしまいました。
「松」の詳しい最後はわかっておりませんが、アメリカ側の記録では撃沈されたとのことです。
「松」型は改型の「橘」型を含めて終戦までに32隻もが建造されました。
これは日本の歴代駆逐艦の中で同型艦数の多さでは「神風」型と並ぶ最多記録でした。
しかも、戦局が厳しくなってきている中でのこれだけの量産というのは、「松」型の設計が量産に充分に適していたという証でしょう。
そしてこういう小型艦は数があることが重要だということの証でもあったような気がします。
それではまた。
- 2013/01/14(月) 21:01:25|
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