ポープの敗北により、戦争の主導権は南部諸州同盟側に移りました。
この時期英国では、北部連邦が更なる敗北を重ねた場合には、南部の分離独立を前提とした仲介を行なう用意を内閣が考えるまでになります。
北部連邦としてはこれ以上の敗北はなんとしても食い止めたいところでした。
半島戦役でさしたる成果を挙げられなかったマクレランにとっても、ここで目に見える成果を上げることが必要でした。
せっかく営々と築き上げてきた地位も名声も失うことになりかねないのです。
マクレランは意を決して南軍との決戦を目論みました。
一方リーも手に入れた主導権をむざむざ取り返されるようなことはいたしません。
彼は南軍によるメリーランド侵攻を実施します。
これはワシントン北西部を支配することによって、北からの圧力をワシントンにかけることができ、同時に北部の潤沢な物資を手に入れることで、兵士たちの給養状態を改善しようという目論みもあったようです。
リーはまず軍勢をフレデリックという町に集結させ、そこからハーパーズ・フェリーという町にいる北軍守備隊一万二千を包囲するべく、軍勢を四つに分けて進めます。
リーの軍勢の位置をキャッチしたマクレランは、全軍を上げてこれを補足するべく行軍を開始しますが、やはりそこは彼自身の臆病とも言えるほどの慎重さで、軍勢は遅々として進みません。
リーはそれをわかっていたのです。
分進合撃は上手くいけば敵を包囲できますが、その前に個別に各個撃破される危険が高く、なかなか上手くいかないことが多いのですが、今回リーはマクレランなら大丈夫と踏んでいたのでしょう。
とはいえ、ここである事件が起こります。
リーが各軍団に出した命令191号を記した文書が北軍の手に渡ってしまったのです。
一説によれば、南軍士官の一人がこの命令による各軍団の配置を記した紙で三本のタバコを包んでいたところ、それがいつの間にかポケットから落ちて北軍兵士に拾われてしまったものらしいです。
この計画書を拾ったマクレランは大喜びで、「これでボビー・リーを打ち負かすことができなかったら、俺は喜んで田舎に引退するよ」と言ったそうですが、リーにとってはまさに一大事でした。
マクレランが作戦計画書を手に入れたことを、地元の南軍贔屓の住民から聞き入れたリーは(このあたり軍事機密というものの重要性がまだ理解されていなかったのだろうか? 南軍も北軍もわりと情報がぽんぽん漏れているような気がします)、軍勢を分離していることの脆弱さに気付き、急いで再集結をはかります。
しかし、すでに広がってしまった各軍勢を呼び戻すのは時間がかかります。
南軍が分離していることを知ったマクレランは、合計で十万になる軍勢で南軍を圧迫し始めました。
しかし、南軍はD・H・ヒルとラファイエット・マクローズの軍勢がどうにか北軍前衛を食い止めます。
そうこうしているうちにジャクソンはハーパーズ・フェリーを包囲。
1862年9月15日、ハーパーズ・フェリーは降伏します。
この時降伏した一万二千という捕虜の数字は、太平洋戦争において日本軍によりフィリピンが陥落するまではアメリカ軍にとっては最大の数字でした。
リーが危機に陥っていることを知ったジャクソンは、すぐさま部隊を引き連れて北上。
リーの布陣するシャープスバーグの町に到着したのは翌9月16日。
マクレランの北軍がD・H・ヒルや、マクローズの妨害を排除して、シャープスバーグに姿を現すのはそのわずか数時間後というきわどさでした。
それでもリーの軍勢は四万一千。
対するマクレランは後方守備などに兵を置いているとはいえ八万七千。
両軍はシャープスバーグの町近辺にアンティータム川をはさんで対峙します。
南北戦争でも名高い「アンティータムの戦い」の幕が切って落とされます。
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- 2007/03/21(水) 21:10:52|
- アメリカ南北戦争概略
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