1812年9月14日。
ロシアの聖都モスクワに入場したナポレオンは、これで和平が成ると考えました。
ロシア軍はボロディノで敗北し、モスクワまで明け渡す体たらく。
皇帝アレクサンドルも和平を結ばざるを得ないだろうと思ったのです。
しかし、アレクサンドルもクトゥーゾフも和平などは考えません。
「戦いはこれからだ!」なのです。
ナポレオンが入場した翌日。
モスクワは大火に見舞われます。
誰かが下した命令だとも、フランス軍の起こした失火だとも言われますが、ともあれモスクワはほぼ全焼します。
しかし、ナポレオンはこのモスクワでアレクサンドルの出方を待ちます。
和平を申し込むよう使者も差し向けます。
そうしているうちに一ヶ月という時間が過ぎ、10月13日にモスクワに初雪が降ります。
ここにいたり、ナポレオンもついに撤退を決断。
来る時とは別の南方路を通り、食料を補給しつつフランスへ戻るという案を採用します。
10月18日。
クレムリンでの最後の閲兵が行なわれ、残存フランス軍約九万のモスクワ脱出が開始されました。
脱出は夜になるまで行なわれ、ここにフランス軍はモスクワを放棄したのです。
ナポレオンの目論みは当然ロシア軍もわかっておりました。
来る時に焼き払った町や村は食料も宿舎も何もありません。
当然フランス軍は寒さを避け食料を求めて南下すると読んでいたのです。
モスクワ南方にはクトゥーゾフがロシア軍をあちこちに布陣させておりました。
飢えて凍えたフランス軍はそのロシア軍と闘う力はありません。
あちこちでロシア軍の襲撃を受け、さらに数を減らすばかりか、南方への進出も阻まれます。
結局フランス軍は何も残っていないもと来た道に戻らざるを得ませんでした。
11月。
温暖な冬とはいえ零下25度にもなるというロシアの冬に、フランス軍は次々と倒れます。
飢えた人々に寒さに対する抵抗力はありません。
さらには錫ペストによりコートが役立たなくなる不運も重なります。
スモレンスクに到着した時には、フランス軍は四万を切っておりました。
悪い時には悪いことは重なるもので、フランス軍がほうほうの態でたどり着いたベレジナ川は、折からの暖気で氷が溶け、渡れなくなっていました。
フランス軍工兵は死を賭して川に入り橋を架けます。
ロシア軍の攻撃を防ぎながら、数多くの死者を出しながらも完成した橋を渡れたのは三万ほどでした。
その頃パリでは、ナポレオンの戦死の報が流れ、その隙にクーデターが起きます。
ナポレオンはその報告に愕然となり、戦場を離脱。
兵士たちは置き去りにされました。
ナポレオンが兵士を置き去りにするのは二度目です。
クーデターは幸い鎮圧され、ナポレオンは12月18日に無事にパリに入りました。
しかし、ナポレオンのいなくなった戦場では、ナポレオンに指揮されることに慣れきった将軍がただ混乱するばかり。
結局フランスの地を踏んだのは五千ほどでした。
こうしてフランス軍はロシアの大地に消滅したのです。
しかし、ナポレオンが完全にひざを屈するまでには、まだまだ大量の血が必要とされました。
1813年戦役。
いわゆる諸国民の戦いが待っています。
何かナポレオンのロシア遠征が続いちゃいましたね。
それではまた。
- 2007/02/27(火) 22:00:38|
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ほろり(涙)
昨日は表現の悪い駄文を書き込んですみませんでしたわw
堕ちとは
栄光から挫折へと堕ちていく流れ、という意味ですわ。
諸行無常や大阪冬の陣や四面楚歌なシチュエーション好き(他人の不幸で楽しむなんて嫌な女w)
のジャックにとって百日天下な彼の生き様もまた、
ジャックの心に響くものがありますわ。
あんまり歴史に詳しくないのに好きなものだから
知識がなくてもついつい話しに参加したくなるジャックはなんて困ったちゃんなのかしらw(自分で言うなw)
そろそろ各国が反ナポレオンの姿勢を見せる頃合かしら。それとも記事はこれで終わりかしら。
どちらにしろまた覗きにきますわね。では~。
- 2007/02/28(水) 05:36:36 |
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- ジャック #-
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>>ジャック様
ナポレオンの栄光と没落はちょっとやそっとでは語れないですよねー。
私もぼちぼちと栄光から没落へ至る経緯あたりを書けたらなと思っております。
まずは絶頂のアウステルリッツかな。
気長にお待ち下さいませ。
- 2007/02/28(水) 21:35:11 |
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- 舞方雅人 #-
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