1940年、ドイツ空軍による英国上空の戦い(バトルオブブリテン)がはじまりましたが、この戦いにおいて米英両軍は夜間戦闘機の必要性を感じました。
そこで米英両軍は共同で昼間は重戦闘機として、夜間は夜間戦闘機として使える双発の新型夜間戦闘機の開発を行なうことにいたします。
この開発は、一機でも多くの航空機が必要だった英国側には開発の余裕がなかったためか、アメリカのグラマン社、ノースロップ社、マクダネル社が試作機を作ることとなりますが、グラマン社、マクダネル社が相次いで脱落し、ノースロップ社の試作機に期待が集まることとなりました。
このため、試作機完成前に早くも米英両軍から発注を受けるという状況でした。
1942年3月、試作機が初飛行を行ないます。
この試作機は、双発双胴という戦闘機としてはかなり大型のもので、これは昼間戦闘機に対抗できる機動性と夜間重爆撃機を迎撃できる重武装が求められたためであり、さらにはレーダー等の電子装備も充実させる必要性があったためやむをえないものではありました。
しかし、やはりこの試作機は性能不足や飛行特性の不良を指摘されてしまい、その改良に時間が取られることになってしまいます。
結局、改良された量産型が製造を開始されたのは、1943年の10月であり、そうなると当然部隊配備はさらに遅れ、P-61と名づけられたこの新型夜間戦闘機が実戦配備となったのは予定からほぼ丸一年後の1944年4月でした。
1944年ともなると、ノルマンディー上陸作戦が開始される時分であり、すでにドイツ軍の爆撃機が夜間爆撃に大挙して押し寄せるような状況ではありません。
P-61は初期の目的である夜間爆撃機を迎撃するという任務はあまりなくなってしまったのです。
それでも少数機によるドイツ軍や日本軍の夜間攻撃はあったため、それらに対しての攻撃には有効でした。
なんと言ってもP-61は2000馬力級のエンジン二機を搭載しており、さらには固定の20ミリ機銃4門、背中の回転銃座に12.7ミリ機銃4門を搭載するという重武装であったため、爆撃機には脅威以外の何者でもなかったのです。

ですが、ドイツ軍の単発夜間戦闘機や、日本軍の一式戦闘機による夜間攻撃などには運動性の差などから対応しきれないという問題も指摘されるなど、能力不足もあったようです。
P-61は夜間戦闘機として機体を黒く塗られることが多かったせいか、「ブラックウィドウ」というニックネームで呼ばれました。
「黒衣の未亡人」と訳されることもありますが、どちらかというと「黒後家蜘蛛」のほうでしょうね。
最終的には約750機が作られたP-61。
登場はやや遅かったものの、欧州や太平洋で連合軍の夜間の制空権保持には充分役立った存在のようでした。
それではまた。
- 2012/06/01(金) 21:04:13|
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