第一次世界大戦で英国と並び戦車先進国となったフランスでしたが、第一次大戦後は装甲戦闘車両を歩兵科に属する歩兵支援用車両と、騎兵科に属する捜索・偵察用車両の二本立てで運用することが基本と考えられておりました。
1930年代に入り、フランス軍騎兵科では速度の速い捜索用の新型装輪装甲車を装備しようと言う計画が持ち上がります。
「捜索」とはどこにいるかわからない敵軍を捜し求めることであり、すでに居場所がわかっている敵軍の情況を探る「偵察」とは異なります。
この計画に対しパナール車が名乗りを上げ、軍の要求である装甲厚8ミリ程度で最高速度70キロ、武装に20ミリクラスの砲を装備した装甲車を作り上げました。
試作車は1933年の10月に完成し、翌1934年初旬に軍の試験を受けました。
その結果重量がやや過大である等の問題はあるものの、機動性は良好で内部空間が広いことが評価されました。
この装甲車はパナール社内で「P178」と言う番号が振られ、正式名称よりもこの名前の方が有名になってしまいますが、正式には「AMD35」という形式番号が与えられ、正式採用となりました。
AMDとはフランス語の「捜索用機関銃車両」の頭文字を取ったものです。
完成したAMD35は軍の要求よりも厚めの最大装甲厚20ミリの箱型の車体を持ち、四輪駆動で前後に運転席がある形でした。
これは敵を発見したらすぐに味方にそのことを知らせに戻らなくてはならず、Uターンをしなくても全速で後進できるようになっているためです。
また武装はフランス軍の車両としては珍しく、砲塔内に二人入れる大型の砲塔を搭載しておりました。
これはほかのフランス軍装甲戦闘車両がほぼ全部一人用の小型砲塔を搭載していることを考えますと、きわめて異例なことでした。
AMD35はこの二人用砲塔に25ミリ砲と7.5ミリ機銃を装備し、同格の装甲車同士の戦闘でも有利に戦えるように考えられておりました。

AMD35は1937年に最初の部隊配備が始まりましたが、そこで判明した不具合を修正し、量産が行われました。
第二次世界大戦が始まった1939年時点では218両、ドイツ軍のフランス侵攻が始まった1940年5月までに500両ほどが生産されたAMD35は、フランスがドイツに占領されてしまったことで生産が止まってしまいます。
ですがAMD35は占領軍であるドイツ軍にとっても貴重な装甲車として認識され、ドイツ軍でも鹵獲使用が行われました。
中にははるばると東部戦線にまで持っていかれ使われたAMD35もあったのです。
1945年、ノルマンディー上陸以後の戦いでフランスが解放されると、フランス軍はこの優秀な装甲車をパナール社に再度生産するように命じました。
パナール社ではこれに応えて砲塔を新型にして47ミリ砲を搭載したB型の生産を開始。
こちらは400両以上が作られ、戦後もまだ保持していた各地の植民地での警備などに使用されました。
AMD35は第二次大戦が始まる前に作られた装甲車にもかかわらず、戦後再び生産が行われた珍しい装甲車でした。
それだけ使い勝手がよかったと言えるのかもしれません。
シリアに供与されたAMD35が退役したのは1964年だったと言いますので、30年にわたって使われた息の長い装甲車だったんですね。
それではまた。
- 2012/04/17(火) 21:00:00|
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