昭和17年(1942年)、日本はミッドウェーで空母四隻を一度に失うという大損害をこうむりました。
これによりもともとはアメリカ本土とオーストラリア大陸との連絡を遮断するフィジー・サモア作戦の支援用前線航空基地として建設が計画されたガダルカナル島の飛行場でしたが、空母を失い防戦に回る可能性がある場合でも制空権確保のためには必要と判断され、ガダルカナル島の飛行場建設は行われることとなりました。
この日本軍が建設しようとした飛行場は、8月5日には第一段階の工事が完了し、滑走路が使用できるようになりました。
しかし、このわずか二日後の8月7日、海兵隊を中核とした米軍の上陸部隊がガダルカナル島に上陸。
飛行場設営のためのわずかな部隊しかいなかった日本軍は米軍の攻撃になすすべもなく、飛行場周辺は米軍に占領されてしまいます。
このとき米軍の上陸部隊は第一海兵師団を中心に約二万名もの大兵力を擁しておりましたが、日本軍は敵情の把握に失敗し、これを十分の一の二千名程度と判断。
もともとミッドウェー島攻略に当てる予定だった陸軍一木支隊(一木大佐が指揮官のためこう呼ばれた)二千三百名をガダルカナルに送り込んで飛行場奪回を企てます。
二千名の敵に対しこちらも二千名程度で攻撃するというのは、私などは少なすぎると感じてしまうのですが、中国大陸での中国軍との戦いでは兵力の少ない日本軍が中国軍を攻撃して勝つのが当たり前的な状況が多かったので、そういった意識が働いていたのかもしれません。
それに米軍は飛行場を長期的に占領しに来たのではなく、ゲリラ行動的に飛行場を破壊して立ち去るものと考えていたようでもあり、撤退する米軍を追い払う程度という意識もあったのでしょう。
しかし、実際には約十倍の敵にまともにぶつかる羽目となった一木支隊は米軍の火力の前に壊滅し、これに驚いた陸軍は川口少将率いる約四千名の川口支隊を送り込みますが、こちらも数日の戦いでほぼ壊滅するという状態に陥ります。
そしてこの間米軍は日本軍が建設した飛行場を拡張し、「ヘンダーソン飛行場」として運用し始めることでガダルカナル島上空の制空権を握りました。
これにより日本軍はガダルカナル島を奪回するための兵力を送り込もうにも、制空権がないために送り込めなくなってしまいます。
そこで日本軍は苦悩の末ある作戦を実行します。
それは艦砲射撃でヘンダーソン飛行場を砲撃し、一時的にでも飛行場を使用不能にしてその隙に部隊や補給物資を送り込もうというものでした。
これに伴い、ヘンダーソン飛行場を砲撃しようと向かった日本艦隊と、ガダルカナル島周辺をパトロールする米軍艦隊との間に数次の水上艦隊戦が生起します。
まず最初に起こったのは「サボ島沖海戦」でした。
この海戦では砲撃に向かった日本軍の重巡艦隊が米軍艦隊の前に敗北し、重巡「古鷹」と駆逐艦一隻を失い、重巡二隻が損傷を受けました。
しかし、10月13日夜には戦艦「金剛」と「榛名」がガダルカナル島に接近し、ヘンダーソン飛行場を砲撃して一時的に使用不能といたしました。
このとき陸軍はこの艦砲射撃を「野砲千門に匹敵する」と喜びの報告をしています。
ところがヘンダーソン飛行場は不死身でした。
日本軍の知らない間に米軍は滑走路を拡張しており、砲撃を受けなかった滑走路から飛び立った航空機が制空権を保持していたため、日本軍は第二師団の揚陸を妨害されてしまい兵員は何とか上陸したものの、武器弾薬や食料などの物資が半分も揚陸できなかったのです。
このため第二師団の攻撃もまた米軍に跳ね返されて失敗となり、ガダルカナル島の戦いはずるずるとどうしようもない消耗戦になっていったのです。
日本軍は制空権を取ろうと躍起になりましたが、前線飛行場のラバウルからガダルカナル島はあまりにも遠く、長距離飛行のできる零戦でもガダルカナル上空での戦闘は30分もできるかできないかでした。
そのため長距離を飛んで疲れ果てたパイロットの乗る零戦と、上昇してきたばかりの疲労の少ないパイロットの乗る米軍機とでは勝負にならず、またたとえ空戦に勝利しても同じ距離を戻らねばならない零戦はあまりにも不利で制空権を取ることはできませんでした。
第二師団の攻撃も失敗に終わり、それ以上にガダルカナル島への補給もままならない状況に対し、やはりヘンダーソン飛行場を使用不能にするしか道はないとした日本軍は、再度ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を試みることにいたします。
それも重巡の20センチ砲ではなく、破壊力の大きい戦艦の主砲を使うことにいたします。
しかし、残念ながら制空権のない海上では戦艦は夜しか行動できません。
米軍機の行動圏の外で日没を迎え、ガダルカナル島に砲撃し、朝になる前に米軍機の行動圏を出る。
そのためには速力が速くなくてはなりません。
日本の誇る戦艦「大和」や「武蔵」「長門」では速力が遅くてだめなのです。
(速力よりももったいなくてそんな任務に使えないとした説も)
そこで速力の速い戦艦である「金剛」級が選ばれました。
「金剛」「榛名」は10月の砲撃で使いましたから、今度は同型艦の「比叡」と「霧島」に白羽の矢が立てられます。
再度の艦砲射撃を行うため、「比叡」と「霧島」は出撃していきました。
(2)へ
- 2012/01/07(土) 21:15:00|
- 旧式と新型の撃ちあい
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『金剛』『榛名』の司令官は、あの栗田健男中将でしたね。
あのときにはストレートに突入できたのに、二年後にはどうして躊躇してしまったのでしょう。
もちろん当事者でなければわかり得ないことがたくさんあるのでしょうから、安直にあの判断が間違っていた・・・とも言いにくいのですけれど。
サヴォ島沖海戦でやられた重巡部隊は、ほとんどがあの三川軍一中将の殴り込み作戦で出ていったフネでしたね。
あの海戦で『加古』が戦没し、サヴォ島沖で『古鷹』が沈み、『青葉』が去り、五島司令官も戦死しました(『青葉』艦長も戦死とする本もあるが誤り)
この稿で言及があるのかもしれませんが、『比叡』『霧島』のまえには、サアヴォ島沖で奮戦した『衣笠』も波間に姿を消します。
アメリカの軍艦も、日本なみの損害を出しているわけですから・・・この海域は鉄底海峡と呼ばれるそうですが、まさに死屍累々・・・ですね。
めずらしく長々と語ってしまいました。(^^ゞ
- 2012/01/09(月) 17:39:18 |
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- 柏木 #D3iKJCD6
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>>柏木様
おお、柏木様からこのようなコメントは珍しいですかね。
ありがとうございます。
栗田中将のあのレイテ突入断念は本当に謎ですよね。
ガダルカナル島近海はまさに鉄底海峡で、両軍多数の軍艦が沈みました。
そのうちの一端である「第三次ソロモン海戦」を記事にしようと思いましたのです。
- 2012/01/09(月) 21:11:50 |
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- 舞方雅人 #-
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