1885年、衰退しつつあったとはいえまだ一級の大国とみなされていた大清帝国(清国)に、二隻の装甲艦がドイツより回航されてまいりました。
装甲艦の名は「定遠」および「鎮遠」。
ドイツのフルカン造船所で建造され、回航されてきた時点では東洋一の堅艦と称されるほど防御力に優れた軍艦でした。
清国海軍に編入された二隻は、清国北洋水師(水師とは艦隊のこと)に配属され、一番艦「定遠」は旗艦として二番艦「鎮遠」とともに北洋水師の主力となります。
この「定遠」「鎮遠」の存在は、当時の日本においてはまさに対抗する手段を持たない核弾頭ミサイルを突きつけられたようなものであり、この「定遠」と「鎮遠」にいかに対抗するかが当時の日本海軍の目標となりました。
常備排水量は7150トン。
全長94.5メートル、最大幅18.4メートル。
最大速力14.5ノット。
30センチ連装主砲を二基を船体の左右に若干前後させて装備し、水線で355ミリもの厚さの装甲板を備え、まさに清国の力の象徴ともいえる軍艦でした。

清国はこの「定遠」「鎮遠」を含む北洋水師を、1886年に親善の名目で日本に派遣してきますが、その目的は威圧にあることは明白であり、日本を侮蔑していた艦隊乗り組みの水兵たちも寄港した長崎で傍若無人に振舞って警官隊と衝突し、双方に死者を出すという「長崎事件」を起こすなど、日本にとっては大きな脅威として見られました。
1894年に勃発した「日清戦争」では、やはり北洋水師の主力として日本海軍と「(日清戦争の)黄海海戦」を行います。
しかし、日本艦隊の有力な速射砲の砲撃を多数受け、両艦ともに火災が発生。
装甲は日本艦隊の砲弾を跳ね返しておりましたが、装甲のない上部構造物等を破壊されたことで戦闘が著しく困難となり、ついに避退のやむなきに至ります。
両艦はその後威海衛に篭もりますが、日本海軍の水雷艇による襲撃などで「定遠」は擱座。
結局日本軍による鹵獲を防ぐ意味からも自沈してしまいました。
一方「鎮遠」のほうは威海衛で座礁していたところを鹵獲され、戦利品として日本に接収されます。
接収された「鎮遠」は日本で修理を受けたのちに日本海軍に編入され、二等戦艦として日本の軍艦となりました。
1904年に勃発した「日露戦争」では、今度は日本の戦艦として「(日露戦争の)黄海海戦」や、「日本海海戦」などにも脇役ながら参加いたしました。

「日清戦争」の時点でもすでに低速であった「鎮遠」は、「日露戦争」終結後はすぐに戦艦から海防艦へと格下げされてしまいます。
そして明治44年(1911年)に軍艦籍から除籍。
砲撃目標として砲撃訓練に使われたのち、明治45年(1912年)にスクラップとなりました。
「定遠」「鎮遠」はともに、「日清戦争」を語る上では欠かせない軍艦でしょう。
当時の日本にとってこの二隻は本当に脅威でした。
どうやってこの二隻に対抗するか悩み、あのいびつな「三景艦」を生み出すことになるのです。
自沈した「定遠」は、一部が引き上げられ、その部材を使って大宰府に「定遠館」という建物が作られたそうです。
「定遠館」は今も健在で、当時の部材が今でもそのまま使われているとのことです。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2011/12/27(火) 21:14:23|
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