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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

普墺戦争(17)

「ケーニヒグレーツの戦い」で敗北したオーストリア軍でしたが、まだまだ戦う力は充分に残っておりました。
大きな痛手をこうむったとはいえ、イタリア方面に回した兵力をシフトするなど行えば、まだまだ兵力も数をそろえることができたのです。

事実オーストリアはイタリア方面に回されていたアルブレヒト大公の兵力約十五万のうち、半数を引き抜いて首都ウィーンの防備に回します。
イタリア方面に残されたのは野戦軍一個軍団と、各地の守備隊兵力合わせて七万七千ほどに過ぎませんでした。

このようにまだ戦う力を持っていたオーストリア軍でしたが、政府と軍上層部はすでにやる気を失ってしまっておりました。
戦争継続の意思を失ってしまっていたのです。
「リッサ海戦」での勝利もさほど意味はなく、もはやプロイセンに対しどの時点で和議を結ぶかということのみでした。

一方「ケーニヒグレーツの戦い」で勝利を収めたプロイセンでしたが、こちらもまた内部で意見が分かれておりました。
このまま軍をオーストリアの首都ウィーンに進め、ウィーンを陥落させるべきと主張する参謀総長モルトケに対し、もはやオーストリアとの戦いは勝利したのだから、このまま和議を結ぶべきと主張する国王ヴィルヘルム一世が対立していたのです。
オーストリア軍を叩き潰して後顧の憂いを断ちたい軍と、政治的な思惑からオーストリアに恩を売っておきたい政府の立場の違いでした。

このとき、すでにヴィルヘルム一世とビスマルクの目はオーストリアから離れてしまっておりました。
もはやオーストリアはドイツ統一の妨げになることはないでしょう。
ドイツはプロイセンを中心とした「小ドイツ主義」で統一するのです。
その妨げとなるのはすでにオーストリアではなくフランスでした。
プロイセンはドイツ統一のためにはおそらくフランスと戦わなくてはなりません。
そのためには対フランス戦時にオーストリアに中立を守ってもらわなくてはならないのです。
ここで首都ウィーンを攻撃せずに和議を結べば、オーストリアが恩義に感じるであろうとヴィルヘルム一世とビスマルクは考えたのでした。

それに「ケーニヒグレーツの戦い」でのプロイセンの一方的勝利に驚いたフランスのナポレオン三世が、早速両国間の和議に関して仲裁を行いたいと申し出てきておりました。
これを無視することでフランスの余計な介入を招いてしまうのは得策ではありません。
国王とビスマルクはモルトケを説得し、プロイセン軍のウィーン侵攻は中止されました。

イタリア方面のオーストリア軍の撤収でイタリア軍は勢いを盛り返しました。
イタリア軍は7月7日から再度ヴェネツィア方面へと軍を進めます。
すでに兵力を引き抜かれていたオーストリア軍にはこれを押しとどめることはできず、イタリア軍は快調に軍を進めることができました。

フランス政府の仲裁でオーストリア政府とプロイセン政府の間で幾度かのやり取りがあった後、7月下旬には休戦が成立。
イタリアもこれに同調しイタリア方面でも休戦が成立します。
わずか七週間ほどの戦争期間であったため、「普墺戦争」は別名「七週間戦争」とも呼ばれます。

翌月1866年8月23日、「普墺戦争」の終戦条約である「プラハ条約」が結ばれました。
これにより、オーストリアを含んだ諸邦連邦であった「ドイツ連邦」の解体と今後のドイツ統一に対するオーストリアの不干渉が定められます。
さらに戦争勃発のきっかけであったシュレスヴィヒ州とホルシュタイン州の両州ともがプロイセンに帰属すること、ハノーファー、ヘッセン、ナッサウ、フランクフルトも同様にプロイセンに帰属すること、ヴェネツィアがイタリアに帰属すること、オーストリアが賠償金を払うことなどが定められました。

この条約はオーストリア側にとっては本土の領土を割譲させられたわけではなく、極めて寛大ともいえる内容でした。
これはすでに述べたようにオーストリアに恨みを買うことなく対仏戦を行うことを考えていたプロイセン側の思惑であり、もはや次なる戦争への準備にほかなりませんでした。

事実この条約を結ぶ前段階において、フランス皇帝ナポレオン三世はプロイセン側に歩み寄った姿勢を取りつつも、プロイセンに対し仲裁の見返りとしての領土割譲を要求してきており、ドイツ統一の障害となってきていたのです。
これに対しビスマルクは敢然と跳ね除け国民の信望を高めました。
一方ナポレオン三世は面子をつぶされ、フランス国民から失望されてしまうのでした。


「普墺戦争」は終わりました。
オーストリアはプロイセンの覇権を認めざるを得ず、ドイツ統一への影響力を失いました。
プロイセンは「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクの主張どおりに鉄と血でもってドイツ統一をまた一歩推し進めることができました。
プロイセンの参謀本部もその能力を見せ付け、参謀総長モルトケもその名を高めました。

そして・・・
ドイツ統一に対する最後で最大の障害、ライン河以東に影響力を及ぼそうと画策するフランス第二帝政に対するプロイセンの挑戦が始まります。
プロイセンとフランスの直接対決である「普仏戦争」は、これからわずか四年後のことでした。


普墺戦争 終

                    ******

参考文献
「普墺戦争」 歴史群像2002年2月号 学研
「リッサ沖海戦」 歴史群像2005年10月号 学研
「普仏戦争」 歴史群像2001年8月号 学研
「リッサ海戦」 シミュレイター誌リニューアル2号 翔企画
ほか

参考サイト
「Wikipedia 普墺戦争」
「Wikipedia 1848年革命」
「Wikipedia オットー・フォン・ビスマルク」
「Wikipedia ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」
「Wikipedia リッサ海戦」
等々その他Wikipedia記事
「普墺戦争 イタリア戦線」
「オーストリアとプロイセン」
ほか

今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
今回もまた予想以上に長くなってしまいました。
各種資料本からのまとめに過ぎませんが、多少なりとも「普墺戦争」というものに興味を持っていただけましたなら幸いです。
  1. 2011/12/20(火) 21:17:35|
  2. 普墺戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<今後の半島情勢はどうなるのかなぁ | ホーム | 夢の実現>>

コメント

普墺戦争のゲームはDG「empires at war」の「ケーニヒグレーツ」シナリオぐらいしか持ってませんが、明治の日本にも影響を与えた戦争ですし、もっと研究したいですね。
  1. 2011/12/22(木) 20:30:23 |
  2. URL |
  3. 富士男 #-
  4. [ 編集]

>>富士男様
おお、そんなゲームがございましたか。
幕末から明治にかけての日本はプロイセンに影響受けましたから多くの方にこの戦争のことを知ってもらいたいですね。
  1. 2011/12/22(木) 20:54:45 |
  2. URL |
  3. 舞方雅人 #-
  4. [ 編集]

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