1866年7月16日、イタリア海軍のペルサーノ伯ペリオン提督は旗艦「レ・デ・イタリア」をはじめとする十一隻の装甲艦と十四隻の非装甲艦、それに陸軍と陸戦隊1500名を載せた輸送艦を伴いリッサ島へと向かいました。
イタリア艦隊は7月18日にはリッサ島に対する砲撃を開始。
これに対し、リッサ島守備隊はすぐさま砲台で応戦するとともに、オーストリア本国にイタリア艦隊の出現を通報いたしました。
このとき、すでにリッサ島と本土の間には海底ケーブルがつなげられ、電信で本土と通信できるようになっていたのです。
イタリア艦隊は装甲艦ばかりではなく非装甲艦も砲撃に加わらせましたが、守備隊の砲撃にすぐさま損傷してしまったため、翌19日は装甲艦だけで砲撃を行います。
この日にはペリオン提督待望の装甲艦「アフォンダトーレ」もリッサ島沖に到着し、イタリア艦隊の装甲艦は十二隻となりました。

(イタリア装甲艦アフォンダトーレ)
この新鋭艦「アフォンダトーレ」は、ほかの装甲艦が舷側砲門タイプだったのに比べ、23センチ砲を砲塔形式で前後に搭載するという近代の戦艦に通じる強力な装甲艦でしたが、ペリオン提督が期待していたのはむしろこの艦の砲撃力よりも、艦首に装備されていた衝角(ラム)でした。
この時代、装甲と砲の貫徹力の勝負は装甲側が有利な時代でした。
船体を装甲で覆った装甲艦に対し、艦載砲の貫徹力は装甲を撃ち抜くには不足し、少々の距離では砲を撃っても装甲を射抜くことができなかったのです。
そのため各国の海軍は古代ガレー船のように艦首部分に衝角(ラム)というものを取り付け、艦首を敵艦の横腹にぶつけることで穴を開け沈めるという方法をまた取り入れようとしておりました。
帆船とは違い蒸気機関で自由に動ける装甲艦は、相手に対する体当たりもまたしやすいと考えられたのです。
「アフォンダトーレ」もまた強力な衝角を持った装甲艦でしたので、ペリオン提督はこの衝角を持って相手を沈めようと考えていたのでした。
18日と19日のイタリア艦隊の砲撃により、リッサ島守備隊の砲台は大きな損害を受けました。
しかし、イタリア艦隊の方も砲弾が残り少なくなったうえ、装甲艦の一隻がたまたま砲門より飛び込んできた砲弾で損傷してしまうという損害を受けて勝手に帰還してしまっておりました。
7月20日、いよいよリッサ島に陸兵を送り込もうとした矢先、イタリア艦隊は北西から接近してくる艦影を認めます。
リッサ島救援に現れたテゲトフ提督指揮するオーストリア艦隊でした。
オーストリア艦隊はリッサ島沖にイタリア艦隊が出現したという報告を受けると、19日にはポーラ港から出撃して来ていたのです。
テゲトフ提督の指揮下には、旗艦「フェルナンド・マックス」以下装甲艦七隻と非装甲艦二十隻がありました。
彼はそれを三つに分け、第一陣は自ら指揮する装甲艦七隻、第二陣は非装甲戦列艦「カイザー」以下七隻、第三陣は中小の非装甲艦十三隻の三段の後翼単梯陣(旗艦を中心に左右に傘のように広がるいわゆる逆V字型の陣形)を組み、イタリア艦隊へと突進していきました。
テゲトフは麾下の艦隊がイタリア艦隊に比べて劣勢であることを承知しておりました。
しかし、機動力によって先手を取ることで劣勢を補おうとしたのです。
これに対しイタリア艦隊は装甲艦十一隻、非装甲艦十四隻を擁しておりましたが、上陸部隊を支援するために広く散開してしまっておりました。
ペリオン提督はとりあえず装甲艦を集結させ単縦陣(先頭艦から一列に並ぶ陣形)を組もうとしましたが、どうにか陣を組めたのは八隻しかおらず、「アフォンダトーレ」はまだ列外にあり、残り二隻の装甲艦は離れすぎていて陣に加わることができませんでした。
また、非装甲艦部隊を指揮していたアルビーニ提督はペリオン提督の命令を無視して戦闘に参加しようとはしませんでした。
1866年7月20日午前10時35分ごろ、テゲトフ提督座乗のオーストリア艦隊旗艦「フェルナンド・マックス」のマストに信号旗が上がります。
「装甲艦は衝角を持って敵を撃沈すべし」
テゲトフ提督もまた、砲撃ではなく衝角によって敵艦を沈めることを命じたのでした。
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- 2011/12/12(月) 21:12:36|
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