1866年6月22日、アルブレヒト大公はイタリア軍第二兵団約八万に対しわずか歩兵1個大隊および騎兵4個中隊だけを残して、全野戦部隊を率いてイタリア軍第一兵団を撃破するべく行動を開始しました。
このときイタリア軍側はまさか兵力の少ないオーストリア軍が打って出てくるとは思わずに油断していたうえ、長期の行軍に備えるために重い装備を背負って行動しておりました。
それに対しオーストリア軍は最低限の装備のみで行動し、悪天候をものともせずに強行軍でイタリア軍に向かって行ったのです。
6月24日、両軍は四ヶ所で激突しました。
ヴィラフランカではオーストリア軍の騎兵2個旅団がイタリア軍の2個歩兵師団を襲撃してこれを撃滅します。
このときイタリア軍側は前夜の悪天候のために大砲が戦場に到着するのが遅れていたことが反撃を妨げてしまったと言います。
オリオシではオーストリア軍1個師団とイタリア軍1個師団がぶつかり合い、一旦はイタリア軍が高地を占領して優勢になったものの、オーストリア軍の反撃を受けてあえなく後退。
さらにオーストリア軍の追撃で大損害を出し、イタリア軍1個師団が救援に駆けつけるもオーストリア軍を食い止めることはできませんでした。
セント・ルシアでもオーストリア軍がイタリア軍を蹴散らします。
この戦闘でも高地を占領したイタリア軍は有利なはずでしたが、オーストリア軍の攻撃に後退せざるを得ませんでした。
クストッツァではイタリア軍3個師団がオーストリア軍の攻撃を一時は食い止めましたが、オーストリア軍が予備の2個旅団を前線に投入し、さらにセント・ルシアやヴィラフランカで勝利したオーストリア軍が戦場に駆けつけてくるともはやどうしようもなく戦場を離脱するしかありませんでした。
そしてこちらでも追撃してくるオーストリア軍のために少なくない損害を出す羽目になったのでした。
この6月24日に行われた一連の四ヶ所の戦いを総称して「クストッツァの戦い」と言います。
イタリア軍は結局のところ四ヶ所すべてで敗退し、オーストリア軍の前になすところがありませんでした。
この「クストッツァの戦い」における敗報を知らされたイタリア軍第二兵団は戦意を喪失してしまいました。
第二兵団はオーストリア軍と戦うことなく後退し、イタリア領まで撤収します。
これを知ったオーストリア軍イタリア方面司令官のアルブレヒト大公はイタリア領まで追撃することも考えましたが、それを行うとフランスの中立を刺激してしまう可能性があったために追撃を行うことはしませんでした。
一方、イタリア方面での勝利とは裏腹に、プロイセン方面でのオーストリア軍は思わしくない状況が続いておりました。
皇帝陛下から会戦を強要する伝聞が届いてしまったベネデク将軍は、やむを得ずプロイセン軍との決戦に臨むことにいたします。
ベネデクは麾下の部隊をケーニヒグレーツ近郊にあるサドワと言う村の付近にある高地に布陣させ、そこでプロイセン軍を待ち構えるつもりでした。
ところがベネデクは戦う気力が尽きていたためか、各部隊に配置は指示したもののどのようにしてプロイセン軍を待ち受けるかの具体的な指示は行われず、それどころか戦う前から退路を考えるような有様だったと言います。
そのためサドワ付近に展開したオーストリア軍は、しっかりした態勢を整えることなくプロイセン軍を迎え撃つことになってしまうのでした。
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- 2011/11/29(火) 21:16:05|
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