航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fセイバーの量産が本格化したころ、すでに日本の次期主力戦闘機に対するアメリカ側の売込みが始まっておりました。
F-80を練習機にしたT-33を日本が採用したことで、日本に対する足がかりを得たロッキード社もまたその例に漏れず、完成したばかりのF-104スターファイターを日本にも売り込もうといたします。
一方、F-86Fを採用されたノースアメリカン社も、当然日本の次期戦闘機には強い関心を示しており、F-86Fの後継となるF-100スーパーセイバーを日本に売り込み、ノースアメリカン社での継続を目指します。
そこで日本政府は次期主力戦闘機の選択を開始することになりますが、この時点ではF-100よりも新型になるF-104への評価が高まっておりました。
昭和32年(1957年)、防衛庁は次期戦闘機調査団をアメリカに派遣します。
日本の要求は当時脅威が増大してきていたソ連軍爆撃機に対する迎撃戦闘機というものであり、マッハ2以上の高速度と上昇力に優れた戦闘機が必要とされたのです。
当時アメリカでこの要求に応えることができたのは、上記のF-100、F-104のほかに、ノースロップ社のN-156F(ノースロップの自主開発機でのちのF-5)、コンベア社のF-102ぐらいでしたが、N-156Fはまだ計画機であり、F-102は価格が高価なことが難点でした。
アメリカからはこのとき予定になかったグラマン社のG-98J11(艦上戦闘機F-11の改良型)も提示され、それら五機種を調査して調査団は帰国します。
調査団は調査結果を報告はいたしましたが、機種の推薦は行われず次期戦闘機の結論は先送りにされました。
そのため、F-86Fの更新のために同じノースアメリカン社のF-100をつなぎとしてライセンス生産する案が持ち上がり、ノースアメリカン社も日本仕様のF-100Jを提示してほぼ本決まりかと思われました。
しかし、F-100は米空軍では「戦闘爆撃機」として使用されており、そのことを知った当時の岸総理が「(専守防衛である)日本に爆撃機は要らない」としてこの案を白紙撤回。
F-100Jは幻の戦闘機となりました。
その後も次期主力戦闘機に関する問題は続き、今度はグラマン社のG-98J11が候補に挙がるものの、「試作段階の机上のプランに国民の血税はつかえない」としてこれも廃案。
ついに再び調査団がアメリカに赴く事態になり、ここでロッキード社のF-104Gを日本向けに改修して採用するという基本案がまとまりました。
F-104Gを日本向けに改修するに当たり、まず変更されたのは電子装備でした。
F-104Gは簡易ながらも対地攻撃能力を持っていたのですが、日本は完全なる迎撃戦闘機として使用するために爆撃コンピュータを取り外し、代わりに射撃管制装置の能力を高めました。
また、空中給油装置も取り外され、空中給油はできなくなってます。
エンジンは強化型のJ-79A11を装備するよう変更され、パワーが増大いたしました。
さらに空母に着艦するときに使う「アレスティング・フック」(飛行甲板のワイヤーに引っ掛けて急制動をかけるためのフック)を装備することも決まりました。
これは日本が空母を持つという意味ではなく、当時の航空自衛隊の基地の滑走路の長さがF-104を運用するにはぎりぎりの長さであったことから、最悪の場合はこのフックを滑走路に叩きつけて急ブレーキをかけるというためのものでした。
武装は20ミリバルカン砲と赤外線誘導のサイドワインダーミサイル、それと空対空ロケット弾が装備されましたが、一部の機体はバルカン砲が未装備とされました。
こうして日本向けに改修されたF-104GはF-104Jとして日本の航空自衛隊に採用となりました。
ライセンス生産はF-86Fと同じく三菱重工が担当し、当初複座のDJ型を含め200機が生産され、のちに追加で30機が作られたため、合計230機が航空自衛隊に配備となりました。
F-104Jはアメリカでの愛称はスターファイターでしたが、日本では「栄光」と名付けられました。

F-104Jは昭和38年(1963年)に最初の飛行隊が運用開始となり、それから航空自衛隊の主力戦闘機がF-4EJ、F-15Jへと更新されるにしたがって昭和60年(1985年)に最後の任務が終了するまで22年間日本の空を守り続けました。
F-104Jが採用された当時はミサイルの発達が急速にすすんでおり、将来の防空はミサイルが主力となると思われた時期でもありました。
そのため、F-104を売り込むときの売り文句であった「究極の有人戦闘機」という言葉が独り歩きをして、「最後の有人戦闘機」というキャッチコピーを付けられました。
事実F-104の細い胴体に小さな主翼という姿は、まさに究極の戦闘機という印象を与え、「最後」と思わせるにふさわしいものでもありました。

しかし、高速と上昇力を重視したそのスタイルは、旋回性をかなり犠牲にしたものでした。
爆撃機を迎撃するには有利でも、戦闘機同士の格闘戦は苦手な機体でありました。
ところが、日本の航空自衛隊は、このF-104Jで苦手な格闘戦をどうやるのかという研究も怠りはしませんでした。
離陸のときに使うフラップを空中でもまるで空戦フラップのように使用し、格闘戦に持ち込まれた場合でも何とか勝負に持ち込むという訓練を行ったのです。
その結果日本のF-104Jは、アメリカ本土での米軍との異機種間訓練において、米軍のF-15を撃墜(判定)するという離れ業まで演じて見せました。
F-15Jへの更新が終了した後も、航空自衛隊には40機ほどの稼働可能なF-104Jが残りました。
これらのうち35機は無人標的機へと改修され、射撃訓練に使われることで最後の奉公を行いました。
最終的に最後の無人標的機となったF-104Jが撃墜されたのは平成9年(1997年)の3月でした。
最初のF-104J一号機が航空自衛隊に納入されてから、実に35年後のことでした。
それではまた。
- 2011/08/17(水) 21:05:18|
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